やっと、分かる記事が出てきた。(12:30)
「短期間に3回建て替えられた」 奈良新聞
そうでしょう! そうでないと変ですよね。 「数十年間に」なんて必要ない文字ですよ。
南北方向の素掘溝(雨落溝)は、東側に突出部を持っており、この部分が階段と想定されるとのこと。門という推測もこれが根拠の一つとなっているようです。
東側の塀に沿って、幅17m程の道路が南北に走っており、遺跡の北側にあった(斉明朝)山田道から飛鳥中心部へ通じるルートと考えられるとのこと。
やっと分かってきた。(^^ゞ 次に進もう。
なぜ東門を立派に見せようとしたのだろうか。 東が玄関口だったのかな。
石神遺跡の遺構図を見ていると、石敷きの広場を持つ建物群(饗宴施設とされている)は、南の方に在る。須弥山石が出土した地点は、南端だったはず。入ってすぐに庭ってのも変だなと思うのだけど、どんなもんでしょう? 前庭ってありますよね。(^^ゞ
石神に在った迎賓館の正門は、何処に在ったのでしょうね。この東門でしょうか。
南北の道路が山田道と飛鳥の中心を結ぶとのコメントがあったけど、この道を南に真直ぐ行っても、飛鳥の中心部にはダイレクトには行けないですよね。(^^ゞ でもないか! 丁度西大垣の西側ぐらいになるかな? 飛鳥寺の西門の前に出ますね♪
石神遺跡の建物配置からすると、遺跡の西側って付属の建物が多いような感じで、迎賓館としては裏方の建物ですよね。それに西側は段差がある。そっちに正門は無いだろうと思うのです。
だとしたら、この門が正門ってことになるのかな? 少し北に寄ってるようにも思えるが。主要建物に、北から入って行くことになるんじゃないかと、そこは気になる点ですね。
石神遺跡の調査は、この21次までとか。全成果をまとめていただいて、読んでみたいな。
下図は、石神遺跡第21次調査区の前に掲示されている案内板の遺跡配置図。
どうも分からん!
読売新聞
「7世紀前半の南北に約25メートル延びる塀跡と東西約6メートル、南北10・5メートル以上の建物跡が出土。7世紀中頃の瓦が大量に埋まった長さ約16 メートルの溝跡などが見つかった。建物を造り替える時に瓦ぶきにしたらしい。」
これでも、斉明天皇の迎賓館と言われる石神遺跡の時期よりも早い時期に塀があったように受け取れるんだよね。(^^ゞ で、その塀は、何を囲っていたの? 石神遺跡の迎賓館的施設って、いつ出来たの? 7世紀前半っていうとどの天皇なんでしょう? 皇極なんていうと中頃ですよね。推古・舒明ってことになるんでしょうか・・。
『数十年間に3回建て替えられ、最後(最盛)の時期には、屋根の一部に瓦を葺いていた。』
この文章↑、どう考えても変!
斉明天皇の時代に瓦葺になったと書いているから、石神遺跡は斉明天皇から数十年前にあったことになる。変ちゃうん! 19次調査だったかに、推古天皇の時代の遺構が出たことはあったように思うのだけど・・・。
この文章構成が、そもそも拙いんじゃないのかな? 記者発表資料を見たいぞ!
「7世紀前半から中頃にかけて建てられたと思われる掘立柱建物が検出された。厳密な建設時期は特定出来ず、数十年の幅を持つとしか言えない。建物は3回建て替えられており、最終段階で屋根の一部に瓦を葺いた可能性がある。それは遺構時期の上限である斉明天皇の時代だと思われる。」
こういうことなら分かるんだよね。正しいかどうかは別にしてだけど。(^^ゞ
「数十年間に3回建て替えられ」だと、スタートが数十年前になってしまうんじゃないかな? どうも、ここに引っかかってしまう。 σ(^^)だけなんだろうか?
「軒に使う瓦は見つかっておらず、屋根の頂上部だけに瓦を使ったとみられる。」
ってことで、読売新聞は書いてます。
棟門みたいな感じなのかな?熨斗瓦だけを乗っけたような。。。(^^ゞ
小さな鄙びたお寺にあったりしますよね。(^^ゞ 立派に見えたんだろうか・・。ぼそぼそ!(笑)
建物の規模が、メートルで表現されているけど、何間だったのだろう。
柱穴の径は?
塀は建物の中心から延びているんだろうか。
略図で良いから、遺構図載せて欲しい。
どうもすっきりしない! なんやねん!
行ってみないと分からんか。(笑)
「短期間に3回建て替えられた」 奈良新聞
そうでしょう! そうでないと変ですよね。 「数十年間に」なんて必要ない文字ですよ。
南北方向の素掘溝(雨落溝)は、東側に突出部を持っており、この部分が階段と想定されるとのこと。門という推測もこれが根拠の一つとなっているようです。
東側の塀に沿って、幅17m程の道路が南北に走っており、遺跡の北側にあった(斉明朝)山田道から飛鳥中心部へ通じるルートと考えられるとのこと。
やっと分かってきた。(^^ゞ 次に進もう。
なぜ東門を立派に見せようとしたのだろうか。 東が玄関口だったのかな。
石神遺跡の遺構図を見ていると、石敷きの広場を持つ建物群(饗宴施設とされている)は、南の方に在る。須弥山石が出土した地点は、南端だったはず。入ってすぐに庭ってのも変だなと思うのだけど、どんなもんでしょう? 前庭ってありますよね。(^^ゞ
石神に在った迎賓館の正門は、何処に在ったのでしょうね。この東門でしょうか。
南北の道路が山田道と飛鳥の中心を結ぶとのコメントがあったけど、この道を南に真直ぐ行っても、飛鳥の中心部にはダイレクトには行けないですよね。(^^ゞ でもないか! 丁度西大垣の西側ぐらいになるかな? 飛鳥寺の西門の前に出ますね♪
石神遺跡の建物配置からすると、遺跡の西側って付属の建物が多いような感じで、迎賓館としては裏方の建物ですよね。それに西側は段差がある。そっちに正門は無いだろうと思うのです。
だとしたら、この門が正門ってことになるのかな? 少し北に寄ってるようにも思えるが。主要建物に、北から入って行くことになるんじゃないかと、そこは気になる点ですね。
石神遺跡の調査は、この21次までとか。全成果をまとめていただいて、読んでみたいな。
下図は、石神遺跡第21次調査区の前に掲示されている案内板の遺跡配置図。
どうも分からん!
- 7世紀前半から中頃の掘立柱建物 (南北5.4m×東西8.1m)
- 掘立柱塀 (南北約25m)
- 溝 (長さ約16m、幅1.5m、深さ20cm・大量の瓦が埋まっていた)
- 塀の東側が道路と考えられるので、建物は門である。
- 門は、何度も建替えられており、一緒に出土した土器から、7世紀前半から中頃と考えられる。
読売新聞
「7世紀前半の南北に約25メートル延びる塀跡と東西約6メートル、南北10・5メートル以上の建物跡が出土。7世紀中頃の瓦が大量に埋まった長さ約16 メートルの溝跡などが見つかった。建物を造り替える時に瓦ぶきにしたらしい。」
これでも、斉明天皇の迎賓館と言われる石神遺跡の時期よりも早い時期に塀があったように受け取れるんだよね。(^^ゞ で、その塀は、何を囲っていたの? 石神遺跡の迎賓館的施設って、いつ出来たの? 7世紀前半っていうとどの天皇なんでしょう? 皇極なんていうと中頃ですよね。推古・舒明ってことになるんでしょうか・・。
『数十年間に3回建て替えられ、最後(最盛)の時期には、屋根の一部に瓦を葺いていた。』
この文章↑、どう考えても変!
斉明天皇の時代に瓦葺になったと書いているから、石神遺跡は斉明天皇から数十年前にあったことになる。変ちゃうん! 19次調査だったかに、推古天皇の時代の遺構が出たことはあったように思うのだけど・・・。
この文章構成が、そもそも拙いんじゃないのかな? 記者発表資料を見たいぞ!
「7世紀前半から中頃にかけて建てられたと思われる掘立柱建物が検出された。厳密な建設時期は特定出来ず、数十年の幅を持つとしか言えない。建物は3回建て替えられており、最終段階で屋根の一部に瓦を葺いた可能性がある。それは遺構時期の上限である斉明天皇の時代だと思われる。」
こういうことなら分かるんだよね。正しいかどうかは別にしてだけど。(^^ゞ
「数十年間に3回建て替えられ」だと、スタートが数十年前になってしまうんじゃないかな? どうも、ここに引っかかってしまう。 σ(^^)だけなんだろうか?
「軒に使う瓦は見つかっておらず、屋根の頂上部だけに瓦を使ったとみられる。」
ってことで、読売新聞は書いてます。
棟門みたいな感じなのかな?熨斗瓦だけを乗っけたような。。。(^^ゞ
小さな鄙びたお寺にあったりしますよね。(^^ゞ 立派に見えたんだろうか・・。ぼそぼそ!(笑)
建物の規模が、メートルで表現されているけど、何間だったのだろう。
柱穴の径は?
塀は建物の中心から延びているんだろうか。
略図で良いから、遺構図載せて欲しい。
どうもすっきりしない! なんやねん!
行ってみないと分からんか。(笑)
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23:00 まだ携帯で見ているだけなんですけど、疑問が膨れる! 追加報道はあったのかな?
疑問のまとめ
ぅう~ん!現説は、何方かを質問攻めにしないといけないようだ。I先生、T先生よろしくお願いします。(笑)
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ニュースが出始めました♪ 只今、18時50分
お寺じゃないのに瓦葺だって! 門が! 斉明朝だって♪
東門と言うことだけど、どんなん? 見たい♪
瓦はどんなん? 見たいやん!どんな瓦当文様?どこか報道して~!
なんや面白そうですやん♪
この項はニュースに合わせて、暫時追記・改訂します。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
どうも報道が分かりにくい!・・・・・
A:「数十年間で3回建替えられ、最盛期の斉明天皇の時代に瓦葺になったらしい・・・・」共同通信
B:「建物はほぼ同じ場所で数十年間に3回、建替えられ、最後の時期は、屋根の一部に瓦を葺いていた可能性がある・・・」 NHK
どういうことなんでしょうか!
斉明天皇ってのは、655年~661年ですよね。?
石神遺跡は、斉明天皇の頃に造られた迎賓館的な建物群と苑池のはず。
上のニュースを読めば、斉明天皇の頃を最盛期とする遺跡みたいに読めるんだけど。
斉明天皇の頃から、数十年前の初期の門って、どういう施設の門なんでしょうか?時代は?
疑問
1:いつの時代の門に瓦が葺かれていたん?斉明朝なら、お寺以外の最初の瓦葺じゃ?
2:3回建替えられたって、建替えられたのは、どの時期とどの時期だったの?
3:この門の最初っていつの時代?斉明から数十年前って事なら、推古?舒明?
4:屋根の一部が瓦葺ってどういう意味? 一部だけ瓦の建物って・・・・。 あっ!無いことも無いか・・。(^^ゞ
5:なんで東門が立派なん? 他の方角の門が見つかって無いだけ?ってことは無いですね。
疑問のまとめ
- 斉明天皇の頃に造られたとされてきた迎賓館=石神遺跡に、突然数十年前から施設があったというのはどういうことなのか?その説明は無いのか?何の施設だったのか?どの時代の遺構が検出されているのか?今までの調査で検出されなかったのはなぜ? 石神遺跡は、斉明・天武・藤原京の3期に渡る遺跡だと思っていたが。
- お寺以外で、瓦葺の建物が斉明天皇の頃にあったとすれば、大ニュースなのでは?
- ニュース写真では、軒丸瓦らしき物が見えてないのは、取り上げ済みだから?単に写真が悪いだけなのか?軒丸瓦が出ていれば、瓦当文様は?
- 瓦葺だとすると、礎石が無いのはなぜ?屋根の一部に瓦を葺いていたというのは、そういう意味なのか。周囲だけとか、棟のところだけとか・・。周囲なら軒丸瓦も出土しないといけないので、棟? 熨斗棟? 熨斗瓦だけなん?
- 門の規模は? というより、門とした根拠は東に道路らしき空間があるだけ? 塀がくっついているからか。
- なぜ東門が立派なのか?16~17m幅の道路と思われる空間があるようだけど、それも斉明朝から数十年前からあるのか?
- その道路は、山田道とどう関わるのか?
ぅう~ん!現説は、何方かを質問攻めにしないといけないようだ。I先生、T先生よろしくお願いします。(笑)
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ニュースが出始めました♪ 只今、18時50分
お寺じゃないのに瓦葺だって! 門が! 斉明朝だって♪
東門と言うことだけど、どんなん? 見たい♪
瓦はどんなん? 見たいやん!どんな瓦当文様?どこか報道して~!
なんや面白そうですやん♪
この項はニュースに合わせて、暫時追記・改訂します。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
どうも報道が分かりにくい!・・・・・
A:「数十年間で3回建替えられ、最盛期の斉明天皇の時代に瓦葺になったらしい・・・・」共同通信
B:「建物はほぼ同じ場所で数十年間に3回、建替えられ、最後の時期は、屋根の一部に瓦を葺いていた可能性がある・・・」 NHK
どういうことなんでしょうか!
斉明天皇ってのは、655年~661年ですよね。?
石神遺跡は、斉明天皇の頃に造られた迎賓館的な建物群と苑池のはず。
上のニュースを読めば、斉明天皇の頃を最盛期とする遺跡みたいに読めるんだけど。
斉明天皇の頃から、数十年前の初期の門って、どういう施設の門なんでしょうか?時代は?
疑問
1:いつの時代の門に瓦が葺かれていたん?斉明朝なら、お寺以外の最初の瓦葺じゃ?
2:3回建替えられたって、建替えられたのは、どの時期とどの時期だったの?
3:この門の最初っていつの時代?斉明から数十年前って事なら、推古?舒明?
4:屋根の一部が瓦葺ってどういう意味? 一部だけ瓦の建物って・・・・。 あっ!無いことも無いか・・。(^^ゞ
5:なんで東門が立派なん? 他の方角の門が見つかって無いだけ?ってことは無いですね。
一つ一つ課題をクリア出来ているのかなと。
飛鳥遊訪マガジンの原稿の締切みたいに小さなことから、飛鳥検定2のネット公開のような一年がかりのものまで。
一つ一つ積み上げてこれたのかなと。
先日、スタッフミーティングをやった。祝賀飲み会でも良いなって思ってたのだけど、約3時間、真剣な話し合いになった。(^^ゞ 各論では、スタッフそれぞれに意見も違う。けど、仲間が寄って、両槻会というものを作っていこうとする統一した意思が有る限り、瑣末な意見の相違は、より仲間としの良さを認識出来る契機にもなる。そんなことを思った。だから、8年もお付き合いが続いているのだと。お互いを尊重する仲間に成長したんだなって思えるから。だから、両槻会は高いレベルの定例会を続けて来れたのかなと思う。
両槻会の最大のイベント「飛鳥検定」を、発足2周年の記念日にネット公開した。
今、飛鳥検定2を見直すと、いろいろ反省点も見えるのだけど、しかし、事務局全員で作り出した解説集を見るにつけ、満足感も持っています。
たぶん専門家が見れば、怪しげな解説もあるだろうと思います。けど、今持っている事務局の力の全てじゃないかと。及ばなかった点は、これからの課題ですね。
見ていただく方にも、そのように見ていただければと。m(__)m ページにも書いているように、飛鳥を勉強される時のたたき台にしていただければ。
決して解説を鵜呑みにしないでね。(^^ゞ
すさまじい勢いで、解説集に写真を大量に追加しました。許可を貰って特別に掲載出来る写真もたくさん盛り込みました。かなり貴重です♪
アイデアを振り絞ってイラストで掲載したものもあります。見ることで、分かりやすく出来ればと思ったからです。
検定をやらなくても、解説集だけ読んでもらっても良いかもしれません。両槻会の飛鳥検定って、何点とれば合格なんていう検定ではありませんのでね。飛鳥を楽しむための一つの足がかりです。
それぞれに楽しんでいただければと♪
一仕事終えたって感じでいます♪ ほっ♪
メールとか充分な対応が出来ていなかったと思います。このような事情でしたので、お許し下さい。m(__)m
飛鳥遊訪マガジンの原稿の締切みたいに小さなことから、飛鳥検定2のネット公開のような一年がかりのものまで。
一つ一つ積み上げてこれたのかなと。
先日、スタッフミーティングをやった。祝賀飲み会でも良いなって思ってたのだけど、約3時間、真剣な話し合いになった。(^^ゞ 各論では、スタッフそれぞれに意見も違う。けど、仲間が寄って、両槻会というものを作っていこうとする統一した意思が有る限り、瑣末な意見の相違は、より仲間としの良さを認識出来る契機にもなる。そんなことを思った。だから、8年もお付き合いが続いているのだと。お互いを尊重する仲間に成長したんだなって思えるから。だから、両槻会は高いレベルの定例会を続けて来れたのかなと思う。
両槻会の最大のイベント「飛鳥検定」を、発足2周年の記念日にネット公開した。
今、飛鳥検定2を見直すと、いろいろ反省点も見えるのだけど、しかし、事務局全員で作り出した解説集を見るにつけ、満足感も持っています。
たぶん専門家が見れば、怪しげな解説もあるだろうと思います。けど、今持っている事務局の力の全てじゃないかと。及ばなかった点は、これからの課題ですね。
見ていただく方にも、そのように見ていただければと。m(__)m ページにも書いているように、飛鳥を勉強される時のたたき台にしていただければ。
決して解説を鵜呑みにしないでね。(^^ゞ
すさまじい勢いで、解説集に写真を大量に追加しました。許可を貰って特別に掲載出来る写真もたくさん盛り込みました。かなり貴重です♪
アイデアを振り絞ってイラストで掲載したものもあります。見ることで、分かりやすく出来ればと思ったからです。
検定をやらなくても、解説集だけ読んでもらっても良いかもしれません。両槻会の飛鳥検定って、何点とれば合格なんていう検定ではありませんのでね。飛鳥を楽しむための一つの足がかりです。
それぞれに楽しんでいただければと♪
一仕事終えたって感じでいます♪ ほっ♪
メールとか充分な対応が出来ていなかったと思います。このような事情でしたので、お許し下さい。m(__)m
両槻会発足2周年を記念して、飛鳥検定2ネット版を公開しました♪
昨年9月の定例会で実施しました飛鳥検定のネット版です。
問題も若干変わっているものもありますので、受験していただいた皆さんも是非♪
また、同時に解説集もネット版として公開しました。(^^)
写真を大幅に追加していますので、是非ご覧下さい♪
両槻会サイトTOPの上部リンク欄の「飛鳥検定1・2」をクリックして進んでください。
飛鳥検定2は、注意書きの下にリンクをつけています。よろしくお願いします。
問題の半分は先生方が作ってくださっているので、また苦手な問題もあると思うので、難しいと思います。なかなか良い点数は獲得できないでしょうが、気楽に受験していただければと思います。楽しんでいただければ♪
受験していただいたら、結果を両槻会事務局宛に送信してください。(^^) 認定書を作って送らせていただきます♪
両槻会サイト
昨年9月の定例会で実施しました飛鳥検定のネット版です。
問題も若干変わっているものもありますので、受験していただいた皆さんも是非♪
また、同時に解説集もネット版として公開しました。(^^)
写真を大幅に追加していますので、是非ご覧下さい♪
両槻会サイトTOPの上部リンク欄の「飛鳥検定1・2」をクリックして進んでください。
飛鳥検定2は、注意書きの下にリンクをつけています。よろしくお願いします。
問題の半分は先生方が作ってくださっているので、また苦手な問題もあると思うので、難しいと思います。なかなか良い点数は獲得できないでしょうが、気楽に受験していただければと思います。楽しんでいただければ♪
受験していただいたら、結果を両槻会事務局宛に送信してください。(^^) 認定書を作って送らせていただきます♪
両槻会サイト
両槻会のメルマガ「飛鳥遊訪マガジン」が総合ランキング6位になりました♪
飛鳥遊訪マガジンの発行システムの一つ「メルマ」から、こんな情報が流されました。
『 前月のscore! (評価指数)や評価数などを基にしてマガジンランキングを発表していきます。約60,000誌の中から見事TOP30にランクインしたマガジンは・・・!? 』
ということで、見事!飛鳥遊訪マガジンは、60,000誌の中の6位に輝きました♪
また、地域情報というカテゴリーにおいては、第1位を獲得しました。
評価指数ということがランキングの要点ですので、購読してくださる皆さんの評価が反映されてのことです。購読者の皆さん、ありがとうございます。m(__)m とりわけ、メルマでお読みいただいて評価をしてくださる皆さん、本当にありがとうございます♪
素直に、とっても嬉しいです。o(∩.∩)o
飛鳥遊訪マガジンの発行システムの一つ「メルマ」から、こんな情報が流されました。
『 前月のscore! (評価指数)や評価数などを基にしてマガジンランキングを発表していきます。約60,000誌の中から見事TOP30にランクインしたマガジンは・・・!? 』
ということで、見事!飛鳥遊訪マガジンは、60,000誌の中の6位に輝きました♪
また、地域情報というカテゴリーにおいては、第1位を獲得しました。
評価指数ということがランキングの要点ですので、購読してくださる皆さんの評価が反映されてのことです。購読者の皆さん、ありがとうございます。m(__)m とりわけ、メルマでお読みいただいて評価をしてくださる皆さん、本当にありがとうございます♪
素直に、とっても嬉しいです。o(∩.∩)o
2月14日 10:30~15:30 随時説明ってことで行われるようです。
昨日夕から、ニュースが出始めたのですが、σ(^^)が思っていたような成果だったようです。こぶし大の敷き石(σ(^^)はもう少し小さいと思ったのですが)の広場が出ていましたので、面白くなりそうだと思っていました♪
写真はクリックすると大きくなります。
調査区の中に入って撮ったものではありません。決められた外側から調査員さんの許可をいただいて撮ったものです。
敷かれた板は、現説用の通路になるんでしょうね。
で、新聞報道は、どちらでもコピペ状態で載っていると思うので、それは置いといて、
検出されたのは、飛鳥時代後半の掘立柱建物、別の掘立柱建物?(東西溝の北側に在る柱穴列でしょうか?)、雨落ち溝、砂利敷き広場(橿考研の発表では砂利になってました。砂利とこぶし大ではかなり違うぞ!)、東西石組み溝、など。
注目されるのは、飛鳥時代後半の掘立柱建物で、東西15m以上、南北7m以上あるらしい。
南北は、全容が検出されていないので、建物の大きさは確認されたわけではないみたいですね。切妻建物というのも推測されたもののようです。南側の雨落ち溝からの判断でしょうね。建物の南に幅約1・8mの庇があったと思われ、雨落ち溝(幅約45cm)があり、さらに南側から幅約15mの石敷き広場と続いているようです。
東西石組み溝は、前回の東直線上で検出されているようでした。で、この溝は先の掘立柱建物にぶつかってしまうので、南北どちらかに曲がっていたように思われます。(って、北でしょうというか、南北溝とT字に交わっていたのかなと=奈文研の調査区で検出された溝に続く?)
休日に作業をされているところを、お断りして撮らせて頂きました。公表も控えていました。こちらも現場の外からの写真です。
立派な東西石組み溝です。前回検出された東西溝と良く似た感じを受けます。今回のもう少し西側で、南北溝と合流するようでした。
こちらが前回。↓
で、この溝が飛鳥浄御原宮の外郭北限だと推定されたわけです。これより北側に、顕著な遺構が検出されなかったことによるようです。
塀も出てなかったんですよね。今回もですが、北限施設なら塀が出るんじゃないかと思うわけです。
さて、今回の面白いところは、警備施設か?なんて推測もされる掘立柱建物の性格や規模と、飛鳥浄御原宮の北限は何処まで伸びていたのでしょうって事なんだと思うんですね。
外郭の東から北に掛けては、官衙的な建物群が取り囲んでいるという指摘は、以前からもありました。相原先生などが、復元案を発表してらっしゃったように・・・。(論文読みましたが忘れました。m(__)m)
外郭の東に沿う道路に近接して、官衙が在ったのだろうとは思っています。今回の掘立柱建物も、その道路が飛鳥寺瓦窯の在った丘の裾で曲がった辺りになるので、道路沿いってことにもなります。建物自体は少し西に外れますが。先日奈文研が検出した道路遺構の南側に繋がる位置になるので、建物も宮内というだけではなく、道路も意識しているのではないかと思ったりなんぞします。砂利敷きだとすると、宮内の施設だろうとは思うのですがね。警備施設としたら、お白州だったりして!(笑)
今回新聞には、石神遺跡までを含めて宮域だったとする意見も出ていましたが、それは違うんじゃないかなと・・。
官衙は官衙で、藤原京でも宮の外にも役所があったわけで、役所が在るからと宮域だというのもなんだかな~って思うのです。
律令制度が整うにしたがって、煩雑な事務処理が増えてきて、役所の大型化や増設は避けられないことだと思うので、暫時、宮や官衙の造作・改築が繰り返されたとは思うのですがね。
やはり、この溝付近に宮の北限は在ったのではないかと思いたいですね。飛鳥寺を取り込むってことは無いんじゃないかと・・・。宮は宮、お寺はお寺、官衙群は官衙群で良いんじゃないかな。
甘樫丘から、調査区の全景を撮ってみました。シートに覆われた盛土の辺りが東西溝です。民家の右手が掘立柱建物が検出された場所になります。
先日行われた、奈文研の調査区と合わせて、飛鳥寺の南・飛鳥浄御原宮の北の辺りの解明がもう少し進めば面白いのだけどと思います。
あっ!槻の木の広場かと思われる明日香村教委の調査区では、特別な物は検出されなかったようで、すでに埋め戻されていました。残念。まっ、何もでないだろうなとは思っていたのですけどね。槻の木の根っこでも出れば面白かったのに。(^^ゞ
石神遺跡第21次も、12日に報道発表があるようです。心して掛からねば、把握出来ずに過ぎ去ってしまいそうだ!
14日は、一日飛鳥だな。(笑)
昨日夕から、ニュースが出始めたのですが、σ(^^)が思っていたような成果だったようです。こぶし大の敷き石(σ(^^)はもう少し小さいと思ったのですが)の広場が出ていましたので、面白くなりそうだと思っていました♪
写真はクリックすると大きくなります。
調査区の中に入って撮ったものではありません。決められた外側から調査員さんの許可をいただいて撮ったものです。
敷かれた板は、現説用の通路になるんでしょうね。
で、新聞報道は、どちらでもコピペ状態で載っていると思うので、それは置いといて、
検出されたのは、飛鳥時代後半の掘立柱建物、別の掘立柱建物?(東西溝の北側に在る柱穴列でしょうか?)、雨落ち溝、砂利敷き広場(橿考研の発表では砂利になってました。砂利とこぶし大ではかなり違うぞ!)、東西石組み溝、など。
注目されるのは、飛鳥時代後半の掘立柱建物で、東西15m以上、南北7m以上あるらしい。
南北は、全容が検出されていないので、建物の大きさは確認されたわけではないみたいですね。切妻建物というのも推測されたもののようです。南側の雨落ち溝からの判断でしょうね。建物の南に幅約1・8mの庇があったと思われ、雨落ち溝(幅約45cm)があり、さらに南側から幅約15mの石敷き広場と続いているようです。
東西石組み溝は、前回の東直線上で検出されているようでした。で、この溝は先の掘立柱建物にぶつかってしまうので、南北どちらかに曲がっていたように思われます。(って、北でしょうというか、南北溝とT字に交わっていたのかなと=奈文研の調査区で検出された溝に続く?)
立派な東西石組み溝です。前回検出された東西溝と良く似た感じを受けます。今回のもう少し西側で、南北溝と合流するようでした。
こちらが前回。↓
で、この溝が飛鳥浄御原宮の外郭北限だと推定されたわけです。これより北側に、顕著な遺構が検出されなかったことによるようです。
塀も出てなかったんですよね。今回もですが、北限施設なら塀が出るんじゃないかと思うわけです。
さて、今回の面白いところは、警備施設か?なんて推測もされる掘立柱建物の性格や規模と、飛鳥浄御原宮の北限は何処まで伸びていたのでしょうって事なんだと思うんですね。
外郭の東から北に掛けては、官衙的な建物群が取り囲んでいるという指摘は、以前からもありました。相原先生などが、復元案を発表してらっしゃったように・・・。(論文読みましたが忘れました。m(__)m)
外郭の東に沿う道路に近接して、官衙が在ったのだろうとは思っています。今回の掘立柱建物も、その道路が飛鳥寺瓦窯の在った丘の裾で曲がった辺りになるので、道路沿いってことにもなります。建物自体は少し西に外れますが。先日奈文研が検出した道路遺構の南側に繋がる位置になるので、建物も宮内というだけではなく、道路も意識しているのではないかと思ったりなんぞします。砂利敷きだとすると、宮内の施設だろうとは思うのですがね。警備施設としたら、お白州だったりして!(笑)
今回新聞には、石神遺跡までを含めて宮域だったとする意見も出ていましたが、それは違うんじゃないかなと・・。
官衙は官衙で、藤原京でも宮の外にも役所があったわけで、役所が在るからと宮域だというのもなんだかな~って思うのです。
律令制度が整うにしたがって、煩雑な事務処理が増えてきて、役所の大型化や増設は避けられないことだと思うので、暫時、宮や官衙の造作・改築が繰り返されたとは思うのですがね。
やはり、この溝付近に宮の北限は在ったのではないかと思いたいですね。飛鳥寺を取り込むってことは無いんじゃないかと・・・。宮は宮、お寺はお寺、官衙群は官衙群で良いんじゃないかな。
甘樫丘から、調査区の全景を撮ってみました。シートに覆われた盛土の辺りが東西溝です。民家の右手が掘立柱建物が検出された場所になります。
先日行われた、奈文研の調査区と合わせて、飛鳥寺の南・飛鳥浄御原宮の北の辺りの解明がもう少し進めば面白いのだけどと思います。
あっ!槻の木の広場かと思われる明日香村教委の調査区では、特別な物は検出されなかったようで、すでに埋め戻されていました。残念。まっ、何もでないだろうなとは思っていたのですけどね。槻の木の根っこでも出れば面白かったのに。(^^ゞ
石神遺跡第21次も、12日に報道発表があるようです。心して掛からねば、把握出来ずに過ぎ去ってしまいそうだ!
14日は、一日飛鳥だな。(笑)
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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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