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風の書 / 日記と雑記 両槻会情報 飛鳥情報
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古道に興味を持ったのは、もう随分前です。
壬申の乱の芋峠道や我が家の近くを通る横大路や中つ道。 
いろいろな物資が運ばれ、人々がいろんな想いを胸に通って行ったんです。
その一コマに触れた時、自分がその歴史の流れの中にいることを実感します。
改めて書くとロマンだとか言われそうですけどね。(^^ゞ

百足らず 山田の道を 波雲の 愛し妻と 語らはず 別れし来れば 
速川の 行くも知らず 衣手の 反るも知らず 馬じもの 立ちてつまづく
せむ術の たづきを知らに 物部の 八十の心を 天地に
思ひ足らはし 魂あはば 君来ますやと わがなげく 八尺のなげき
玉ほこの 道来る人の 立ち留り いかにと問はば 答へやる たづきを知らに
さ丹つらふ 君が名いはば 色に出でて 人知りぬべみ あしひきの 
山より出づる 月待つと 人にはいひて 君待つ吾を          (巻13-3276)

山田道で演じられた古代飛鳥人の純真な愛の姿でしょうか。
道は生きているんだなぁ~って思ったりします。


ところで、今回の調査では、
山田道の他に桧製の扇や7世紀後半の木簡15点が出土したようです。
柱をつなぐ建築部 材を固定する釘30本につけられた荷札木簡もあったそうです。
「小柱十九」と別の部材の数を記したものも出土したそうです。

この道を通って活発な建築部材の運搬が行われたのでしょうね。
近くにあったであろう物資の管理役所の存在を想像させます。 
詳細は知りませんが、天武期のものでしょうか、藤原京建設にかかわるものでしょうか。 
もう少し情報が欲しいなぁ~。 やっぱ現説行きたい! 資料欲しい~! 


昨夜から、サイトに爆発的なアクセスをいただいています。 あり~。m(_ _)m
探してはる記事が無かったらごめんなさい。m(_ _)m 
関心を持たれる方も多いんですね♪ 間違った内容があったらごめんなさい。m(_ _)m


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石神遺跡のニュースが流れ始めました♪

まだ、全ての成果が流れているとは思えないのですけど、
山田道の幅が18mだったというのと、
それが7世紀後半から8世紀初頭のものであったことに集中しています。

道路遺構の時期確定がどのような根拠に基づくのかは分かりません。
(飛鳥Ⅳ式とかの土器が出てるのかな?基礎工事の土器片とかもそうなのかな?)
藤原京の南限と密接に係わるだけに興味も深いのですけど、
どちらかと言うと、σ(^^)は推古時代の山田道を見たい 
近くには埋もれているのでしょうけど、どこなんかな~。 妄想♪ 北側? いや下か南♪(笑)

IMG_0182s.jpg

写真提供はももさん♪ (マニアック先行現説の成果)  感謝♪

IMG_0187s.jpg

                         写真提供はももさん

南限の側溝を上手く捉えてはります♪ で、現道路の反対ぐらいが北限になるのだと思います。 道路遺構の中を、さらに掘ってはるのは、推古時代の山田道を探してたのかな? なんてね。

表面の石や土器片は、道路の水捌けを良くするための基礎工事のようですね。
整然とした石敷きとは違いますもんね。
と言うことは、路面上部は削られてるってことなのかな?


山田道については、飛鳥三昧のページが詳しいです♪
飛鳥へ続く道 古の道を訪ねて」  「山田道」  
今思うと、多少変な記述もありますが。 m(_ _)m

日本書紀推古16年(608)聖徳太子の「日出処の天子・・・」の書き出しで始まる書簡で有名な遣隋使にたいして、大唐の使者として裴世清が入京します。瀬戸内海を船で難波津に着け、2ヶ月の接待の後いよいよ飛鳥へ入るこにとなります。

そのコースは、大和川から初瀬川へと川を遡らせ、海石榴市に上陸します。
「・・この日、飾り馬七十五匹を遣わして、唐の客人を海石榴市の路上に迎え、・・・。」という日本書紀の記述は、海石榴市から小墾田宮へは、陸路を歓迎のパレードが行われたことを示しています。その道こそが山田道であるのだと思います。

海石榴市から小墾田宮までは、山田道以外のルートは考えにくいです。
σ(^^)は、海石榴市は桜井市粟殿近くにあったと思っているのですが、
山田道は、海石榴市と小墾田宮と軽衢を結ぶことで意味があった道路なのではないでしょうか。

山田道を西に進むとぶつかる事になる雷丘との関係もよく分かりません。
雷の城山と上ノ山の間は、掘削されたものだと思うのですけど、
それはいつ?  5世紀の古墳築造で出来た隘路を山田道の東西を結ぶために拡張掘削したのだと言うのが説得力があるように思うのですけどね・・。 神奈備とも言われることもある雷は、7世紀にはどんな価値観で見られていたのだろうか。

5世紀の古墳や中世の雷城跡はともかくとして、7世紀の石室らしきものまで出てくる。 
聖なる丘の真実の姿って、なんなのだろうか?
飛鳥時代の雷丘は上ノ山だけを言うのかも知れないと思ったりもする。

この発掘調査地は、山田道だけではなさそうです。
木簡も出ているようですし、かなり深い遺構には沼沢地を流れる川?の流路に見えるところも有ります。また石敷きの面も出ているようです。
湿地というか池?川?を埋立てて、この地は利用され続けてきたわけです。
その飛鳥人の姿が見えるような遺構のように思えます。

続報や現説を待ちたいと思います。
σ(^^)の妄想は、もう少し妄想のままであるようですね。(∩.∩)

現説情報は、奈文研サイト

写真を提供してくれた「ももさんのありのすさび」です♪
トラバもさせていただきました♪


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-------29夜--------------------------------

夜になるとまた不調。 一日休みたいなっ!
けど、もう一息だ♪


-------29昼--------------------------------

かなり復活♪  けど、すること山積み。
早く帰れそうもないや。(x_x)

-------28夜--------------------------------

疲れからか、発熱しました。(T.T)
某ペンちゃんと一緒♪   バタッ




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石神遺跡の報道発表は、明日29日みたいです。
公式サイトに現説案内と出ていますけど、ちと先走りました。m(_ _)m

竹田遺跡は、報道も始まっていますね。
飛鳥時代後期の建物跡二棟を含んでいるようです。 小さいみたい。
新田部皇子さ~~ん! お家はどこ? 


--------27日-------------------------------------------

飛鳥藤原第145次(石神遺跡第19次)発掘調査の現地説明会が行われます♪

下↓の記事で予告していたのは、この現説のことでした。(^^)
で、発表がありましたので、風の書でも公開♪


2007年3月31日(土)  説明は午後1時30分から1回  ※小雨 決行
都城発掘調査部   研究員  小 田 裕 樹 氏
詳しい情報は、奈文研サイトトピックスを見てください。



山田道に近い場所なので、古代の道路遺構も検出されているかも知れません。
また、発掘現場を見ると、かなり深くまで掘ってらっしゃるようなので、
より古い時代の遺構も見つかっているのかも知れないですね。

P1180965s.jpg

昨年は、この南側の田んぼから、観世音経と書かれた木簡が出土しているので、
木簡の期待も出来るかも知れないです。

両槻会第一回定例会と日程が重なってしまったのですけど、
どうにかして現地だけは見たいと思っています。

また、同日には、石神遺跡からさほど遠くない竹田遺跡も現地見学会があります。
3月31日(土)13時00分~15時  (説明はありません。) ってことです。

目立った成果が出なかったのかな? 見学会って事ですもんね。
昨年の発掘現場の北側だったので、
新田部皇子の邸宅の中心建物が出るかと期待してたんですけど、
大型の建物は検出されなかったようです。
飛鳥時代後期の建物は、小さな二棟ばかりだとか。



それぞれに、詳しいニュースが流れるのを待ちたいと思います♪

けど・・・、同じ時間に現説と見学会やったらどっちか見られないのとちゃうん?
現説中心に行ったら竹田見れないし、竹田に行ったら現説途中からになるよ!
現説普通は1時間半ほどかかりますよね。 少しずらさないのかな普通! 疑問!


奈文研サイトには、先週土曜日に行われました「第二次大極殿院東方官衙地区の
現地説明会資料とパンフレットが公開されています。
よく出来た資料でした♪   行けなかった方、入手出来なかった方はどうぞ♪


最近、真神原より北の方が気になるσ(^^)。
石神の北から西って、飛鳥時代にはどうなってたんだろう?
真神原のイメージって結構出来てきたと思うんだけど、こっちの方は全く分からん。
石神は継続的な調査が行われて、ずっと見てきたから素人なりになんとなくわかるんだけど、
その西や北西が気にかかる。

飛鳥時代、飛鳥川は雷丘の東を小山に流れていたわけで、
そうなると小墾田宮ってのは、飛鳥川の東西のどちらに在った事になるんだろうか。
雷東方遺跡の位置からみると西岸すぐ側のようにも思うんだけど・・・。
それは奈良時代の小墾田の宮なわけで、飛鳥川は流路を変えていたはず。
あの辺傾斜してないかな・・?今見ると、雷丘の上ノ山の裾野って感じがする。

飛鳥川が流路を変えるまで、今の飛鳥川の流れる場所はどうなっていたのだろう?
飛鳥時代の景色がまだ見えてこない!

石神遺跡の北から山田道までの間は、整地が行われてきたようだけど、
その西辺りに小墾田宮は無かったのかな? 
飛鳥川東岸の方が傾斜も少ないのじゃないのかな?
だからこそ湿地帯でダメなのかも知れないけど。。。。 
瓦を葺こうとして柱が腐ったって話もあったな~・・。  だったら・・。
山田道があって、中つ道の延長線と交わる辺りって、なんかあっても良いんじゃ無いのかな?
そういう妄想がずっと頭に住み着いてる。

今回の発掘成果が、そんな疑問に少しでも答えてくれたら良いな♪

ネットニュース出てきませんね。(^^ゞ  σ(^^)フライング? (^^ゞ 
だったらすみません。m(_ _)m

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更新ですぅ♪

両槻会サイト  飛鳥検定実施決定 と 第二回定例会予定の更新です♪
飛鳥検定の概要と日程を決定しました。ご覧下さい♪

飛鳥写真館  春飛鳥  でっす♪




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なかなか書けなかった豊浦寺話その2。

えっと、以前の記事の中で間違いがありまして・・・・、
っていうか、参考にした文章に誤りがあったのです。(^^ゞ
?って思いながら、その説を採用してしまいました。m(_ _)m ごめん。

ぅんで、参考にさせていただいた公式サイトに確認メールしていたんですけど、
間違いだったことが分かりましたです。そちらも、近々修正されると思います。ねっ!(笑)

で、結論としては豊浦寺は、藤原京遷都でも平城京遷都でも移築されていません。
飛鳥に残ったようです。
飛鳥の寺の中でも、遷都で移築されるものとされないものがあったようです。
豊浦寺・川原寺・橘寺・立部寺などは動いていません。
どのような理由によるものなのでしょうね?

豊浦寺と橘寺は尼寺だったから? 立部寺と橘寺は聖徳太子がらみだから?
川原寺は天智創建だから?・・・・・・・。

あっ!移ったからといって、飛鳥寺なんかも何にも無くなってしまうと言うわけではないようです。
飛鳥寺も12世紀頃まではそこそこの規模で存在していたようですからね。
そこらも含めてややこしい話です。(笑)

やっぱりタイムマシーンが欲しい! (笑)

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第一回定例会の予定を下記のように変更します。

3月 31日  11時30分  飛鳥庵集合。
12時30分 講演開始♪ 
以上のように変更になりました。

申し込みは、まだ受け付けております。
参加資格は、ありません。どなたの参加も歓迎いたします。

ただし、申し込まずに直接来られた場合は、お断りいたします。
必ず両槻会サイトよりお申し込みください。 お待ちしております♪

既に登録されている方々には、メールを送信していますので、チェックしてください。

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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使 
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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