ニュース追うだけでも大変な夜です。(笑)
石神遺跡第16次調査(2003年11月)で出土していた木簡に、万葉集巻7-1391
「朝なぎに 来寄る白波 見まく欲り 我はすれども 風こそ寄せね」
が、万葉仮名で書かれたいたことが分かりました。
木簡の文字は読み取れていたようですが、それが万葉歌であることが今回判明したようです。
今まで最古の出土例とされている紫香楽宮跡から出土した木簡より、60~70年さかのぼる最古の例となるようです。最古というのは、万葉歌が書かれた物としてということで、難波津の歌の木簡は出ていますので、歌の書かれた木簡という意味ではないようです。
紫香楽宮跡から出土した木簡の万葉歌
巻16-3807 「安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに」
16次調査区は、石神遺跡の北限とされる塀の北側になり、溝などから大量の木簡が出土しています。この木簡は、いわゆる第2期(天武朝)の遺構とされる木屑層から出土しています。木屑層は、16次調査区の南西側に位置しており、一括して投棄された木簡の集積層なのだと思われます。同調査区からは、「「己卯(つちのとう)=天武8年」と書かれた木簡も出土していることからも、同時代の木簡であると推測されました。
出土木簡には、仕丁制に関わるものが多く、文書・更進荷札・習書・呪符・削屑など多様な木簡がありました。
今回の木簡は、墨で書かれたものではなく、釘様のもので刻んだ物でした。もし天武天皇の頃の木簡であるとするならば、報道されたような宴席に用いた木簡とは考えにくいように思います。習書や物覚えのメモ代わりであったのかも知れませんね。他の出土木簡から、付近に役所(官衙)の存在が推測されるからです。石神遺跡=饗宴の場というのは、斉明天皇の時代のことであると思います。
檜前遺跡群
規則正しく並んだ柱の跡とみられる6つの穴が見つかりました。柱穴の間隔から、東西の長さがおよそ4メートルで、南北が1.5メートル以上の建物があったと考えられました。
檜隈寺の伽藍中心部から、東側(北東)に約60メートル離れ、中心部よりおよそ10メートル低くなっている所だと発表されています。9月末に発表になった遺構とは別の調査区になります。一帯は、たくさんの調査区が設定され、村教委や奈文研の発掘調査が続いています。
おそらく、この辺りかと思われます。 写真左の森が檜隈寺跡・右にかけての段々畑状の発掘調査地が今回の調査区ではないかと思われます。
建物は、7世紀の飛鳥時代のものとみられ、主要な施設から離れていることなどから、僧の住まいや倉庫といった、寺の関連施設として使われた可能性があると報道されました。
詳報が伝わってこないので、内容に関してはよく分かりません。
高松塚古墳の排水溝
墳丘内の排水のために造ったとみられる溝の一部が発見されたそうです。
墳丘の中心部から土中を南北に延び、石室付近に雨水がたまらないようにする工夫のようです。同様の溝はキトラ古墳などでも見つかっているそうです。
排水溝は、幅約60センチ、深さ約30センチで小石が詰められており、長さは10メートル以上あるようです。
石神遺跡第16次調査(2003年11月)で出土していた木簡に、万葉集巻7-1391
「朝なぎに 来寄る白波 見まく欲り 我はすれども 風こそ寄せね」
が、万葉仮名で書かれたいたことが分かりました。
木簡の文字は読み取れていたようですが、それが万葉歌であることが今回判明したようです。
今まで最古の出土例とされている紫香楽宮跡から出土した木簡より、60~70年さかのぼる最古の例となるようです。最古というのは、万葉歌が書かれた物としてということで、難波津の歌の木簡は出ていますので、歌の書かれた木簡という意味ではないようです。
紫香楽宮跡から出土した木簡の万葉歌
巻16-3807 「安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに」
16次調査区は、石神遺跡の北限とされる塀の北側になり、溝などから大量の木簡が出土しています。この木簡は、いわゆる第2期(天武朝)の遺構とされる木屑層から出土しています。木屑層は、16次調査区の南西側に位置しており、一括して投棄された木簡の集積層なのだと思われます。同調査区からは、「「己卯(つちのとう)=天武8年」と書かれた木簡も出土していることからも、同時代の木簡であると推測されました。
出土木簡には、仕丁制に関わるものが多く、文書・更進荷札・習書・呪符・削屑など多様な木簡がありました。
檜前遺跡群
規則正しく並んだ柱の跡とみられる6つの穴が見つかりました。柱穴の間隔から、東西の長さがおよそ4メートルで、南北が1.5メートル以上の建物があったと考えられました。
檜隈寺の伽藍中心部から、東側(北東)に約60メートル離れ、中心部よりおよそ10メートル低くなっている所だと発表されています。9月末に発表になった遺構とは別の調査区になります。一帯は、たくさんの調査区が設定され、村教委や奈文研の発掘調査が続いています。
おそらく、この辺りかと思われます。 写真左の森が檜隈寺跡・右にかけての段々畑状の発掘調査地が今回の調査区ではないかと思われます。
建物は、7世紀の飛鳥時代のものとみられ、主要な施設から離れていることなどから、僧の住まいや倉庫といった、寺の関連施設として使われた可能性があると報道されました。
詳報が伝わってこないので、内容に関してはよく分かりません。
高松塚古墳の排水溝
墳丘内の排水のために造ったとみられる溝の一部が発見されたそうです。
墳丘の中心部から土中を南北に延び、石室付近に雨水がたまらないようにする工夫のようです。同様の溝はキトラ古墳などでも見つかっているそうです。
排水溝は、幅約60センチ、深さ約30センチで小石が詰められており、長さは10メートル以上あるようです。
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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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