昨夜から今朝にかけて、下つ道発見の新聞記事には注目していたのですが、
昨夜とあまり変わるところも無い記事ばかりでした。(^^ゞ
発掘現場の写真を見ていると小さな調査区(計約140平方メートル)なので、
そのようなものなのかなと・・。 (T_T)
で、発掘調査の場所ですけど、上の写真の近くなんじゃないかと。(^^)
写真は、03年に藤原京から平城京まで「下つ道」を歩いた時のものです。
平城宮が近づいて、最初に復元朱雀門の屋根が見えたところです。
写真の南側を走る国道308号の拡幅工事だとか。
飛鳥三昧 「 古の道を訪ねて -飛鳥へ続く道- 」 「 下つ道 」
検出された側溝跡は、幅約2メートル、深さ約1メートルで、
底部に直径約13センチの須恵器の坏蓋1点が発見されたようです。
その形状から、7世紀初めと判断され、発見された溝の時代が特定されたようです。
一個の土器から時代を断定するのは、難しいかも知れないとも思うのですけど、
須恵器の杯の蓋を何十年も使ってから投棄するかなって考えると、
やはり推定される年代に近いものだと考えるのも当然なのかも。
平城京の時代には、当然朱雀大路として改修されるわけで、朱雀大路は幅70m。
下つ道は、約23m。
朱雀大路から南の基点とされる見瀬丸山古墳までは、おおよそ23キロ。
ただし、下つ道の北の基点は朱雀門であるはずはなく、
何処まで作られていたかはわかりません。
奈良北部の丘陵を越えて木津川に向かっていたのか・・・。 あるいはもっと・・。
まっ、直線であるのは丘陵にかかる手前までなんでしょうけど。
南北3本の古道は、直線道です。 それも真南北の。
そこに、疑問が出てきます。
推古天皇の時代の地割は、南北から西に振れる場合が多く有ります。
馬子邸といわれる島庄遺跡の7世紀初めの建物群や法隆寺若草伽藍もそうです。
上の筋違道と書いている道路の傾斜角度がそれに当たります。
聖徳太子が斑鳩から飛鳥へ通う道として太子道とも呼ばれています。
自分達の住まいの方位と違った道路を造るだろうか?
でも、大きな大和盆地全体を含めた土地利用計画の端緒だったのかもしれないですね。
幹線道路に従った開発を進めようとしたのかもなどと思います。
その証拠に、飛鳥の北部になる小墾田を埋め立てて宮を置いています。
その部分での山田道は直線の東西道なので、
必然的に小墾田宮は正方向を向いているはず。
推古・馬子・太子の三人の誰が主導権を持っていたのかは分かりません。
見瀬丸山古墳が稲目の墓だとすると、蘇我馬子主導の計画だったのかも。
また、欽明陵だとすると、推古・太子の主導であったのかも知れません。
あるいは、三人の合意の下であったのかも知れませんね。
この三人がもめていたなどということは、σ(^^)なんぞは無いと思うのですが。
でっかい道を造る必要が生まれていたことと、
それが出来る権力構造が出来てきていたってことでしょうね。
中央集権国家、難しく言うとそういう事なのかもしれません。
もう少し、分かってくると良いのだけど。。。 楽しみにしたいです♪
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真神原連風人
年齢:
1450
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性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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