昨日は、橿考研友史会の例会で、戦国時代の奈良を探訪してきました♪
あまり知識は無いのですけど、それでも面白かった♪ 結構、ハマる要素があったです。
あまり知識は無いのですけど、それでも面白かった♪ 結構、ハマる要素があったです。
自宅出発は9時で、ギリギリ予定時間に駅に到着するも、踏切事故があって電車が全く来ない。(T_T) 前途真っ暗なところから日曜日がスタートしました。結局、30分ほどの遅れで桜井に到着、JR乗換えが上手くいかない。(>_<)
と、どこかで見たことのある方が・・・。(笑) 電車のせいではなく遅れた らいちさんとここからご一緒に。
集合場所のJR奈良駅では、既に出発式が行われ、山田先生のお話が始まろうとしていた。セーフ♪
ここで、ぷーままさん発見♪ 最後まで3人で戦国奈良を楽しんだ。(^^)
風人は、あまり奈良を知らない。戦国時代もあやふや。(^^ゞ よって、説明は新鮮♪ 山田先生らしい地形の把握から始まる説明が、風人には楽しかった。地図には現れない高低差なども、実際に歩くと足で分かる。
中将姫の誕生地というお寺の前を借りて、1回目の説明。松永久秀VS筒井順慶という、まっ名前だけは知っている戦国武将の戦乱「辰市城の合戦」のお話。筒井方が、筒井城奪還から松永の居城だった多聞山城へ攻めあがるルートの推定など、古地図も交えてお話を聞いた。面白いです。といって、当時、奈良町には火が放たれ、庶民には大迷惑な話ではある。
大乗院庭園に進んで、館の方から庭の説明があった。それは置いといて、メインは庭の北に在る鬼薗山城のお話。奈良ホテルのある小さな丘陵です。
ここに来て、懐かしい名前に遭遇。両槻会の定例会「新緑の高取城址」で、少しは勉強したのですが、その時に目にした「越智家栄」や「筒井順永」の名前が出てきた。資料として読んだ人達の合戦の場だったんですね。この城をめぐる争いとしては、大乗院方の越智氏が勝利し、お城は廃城となったようです。
写真は、大乗院庭園と背後の鬼薗山城址。
風人的には、次が一番面白かったのですが、それは、西方院山城跡です。瑜伽神社の裏山になります。神社境内の本殿裏山なので、ご案内いただかなければ見ることも無かったと思います。外からではただの丘陵ですのでね。(^^ゞ 登ると、郭跡や堀切や土塁の跡が風人にも見て取れました。飛鳥などでは、このような城砦跡を見る事もあるのですが、こんなにはっきりと残っているのは珍しい♪ 二重の空堀などもはっきり見えました。
あっ!この辺りは、奈良の飛鳥という地域名です。瑜伽神社には、飛鳥の地名の入った万葉歌碑もありました。
西方院山城をめぐっては、大乗院方の古市澄胤らが築城しているのですが、城引渡しの3日後には、一乗院方の筒井氏によって落城してしまったそうです。僅か三日間のお城だったのですね。。。
写真は、東側の掘切の跡。
っ!片隅に写っているのは、石垣の跡と言うわけではありません。(^^ゞ 何かをお祀りした台石ですが、元は石垣の石なのかもしれませんね。
ここから東大寺へ向かったのですが、途中で昼食休憩。この日は、お弁当ではなくてコンビニおにぎり。やっぱちと寂しい。(笑)
次は、南大門下でのお話。
ここでの話しは、流石に少しは知っていました。「東大寺大仏殿の戦い」です。三好三人衆VS松永久秀ですね。これによって、大仏様は焼け落ちるのですから、困ったものです。そもそも三好家内の権力闘争なのですから、情けない話であります。一般的に、松永久秀が火を放ったようになっているのですが、別の記録もあると紹介していただいて、結局は戦火が火を招いたので、両方の責任って事なんでしょうね。
三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)。政康って、後に豊臣に下って、真田十勇士の一人、三好青海入道のモデルになったとか聞いたことがあるようなないような。(^^ゞ悪い奴やってんや!って思うのは単純すぎるのかもしれませんが、昔の忍者ごっこでは欠かせぬ真田十勇士。ちと夢が壊れる。(笑)
両者がにらみ合って陣を敷いた東大寺大仏殿院と戒壇院の間でも、お話を聞いた。至近距離でのにらみ合いが、火付けと言う最悪のシナリオを生んだのかも知れない。
写真は、転害門。おだるき・じだるき・ひえんだるき! もう、おぼえました♪ (笑)
昨春の橿考研特別展にも展示されていましたね。転害門の尾垂木。
で、唯一風人が知っていた「多聞城(多聞山城)址」へ。 現在、若草中学校になっているのですが、かなりの規模のお城だったようです。城址って学校になっていることが多いですよね。σ(^^)の母校の名張小・中学校も藤堂家の城址でした。
写真は、多聞城跡から東大寺大仏殿と二月堂。
先生の資料によると、多聞城は松永久秀の大和支配の拠点として永禄3(1560)年に築城されたということです。奈良坂に面する交通の要衝であり、興福寺・東大寺や奈良市街地を見下ろす絶好の場所にあったようです。
どのような建物があったのかは、僅かな資料しかないようですが、ルイス・アルメイダという宣教師の書簡があり、「世界中比城の如く善且美なるものはあらざるべしと考えふ」など城内の豪華な様子が書かれているとか。安土桃山文化へと続く煌びやかな時代の到来が目前にあったのでしょうね。
時は進み、織田家支配の元に明智光秀や柴田勝家などという、メジャーな武将も城主に名を連ねるようですが、最終的には筒井順慶が大和国の守護となるのですが、彼は多聞城には入らず、筒井城から郡山城を主城として、多聞城は廃城となったようです。石垣の石材などは、運んだそうです。
地形的にも郭(曲輪)の痕跡が分かり、楽しくお話を聞くことが出来ました。
ちと驚いたのですが、聖武天皇陵・光明皇后陵も出郭(曲輪)・出城とされているのですね。戦国時代って、何でもありなんだと。(^^ゞ
写真は、(聖武天皇陵)多聞城出城に攻め込む友史会衆。
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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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