タイトル記事の前に
どうにか第22回定例会のアンケートを集計し終えました。ふー!
飛鳥時代から始まる我国の瓦の歴史。マニアックな世界かもしれないですけど、そこにある面白さをほんの少しでも分かっていただく第一歩にしたくて今回の講演会を行いました。難しかったと回答された方もいらっしゃいましたが、概ね、こちらが意図したことをご理解くださった様子に、スタッフとしてほっと胸をなで下ろしています♪
どんな分野でもそうですけど、基礎ってじゃまくさいんですよ。やっぱり覚えないと仕方が無いこともありますのでね。そこには派手さもありません。けど、そこを越せればず~っと面白さは増えてくるわけで、いわば講師の岡田先生は一番難しいテーマに挑戦してくださったように思います。
講演会で、その一歩目を踏み出してくださった方もきっと居てくださると思います。博物館の瓦の展示の前で、きっと足を止めてくださるでしょう。その時に岡田先生の話を一言でも思い出して下されば、この定例会は大成功だと言えるように思いました。(^^)
改めて、岡田先生、集合場所に来て下さったアジクさん、急遽お呼びしてお話を頂きました成田先生、一般参加してくださったジョンスさん、ミクラスさん、ありがとうございました。
個々にお話しする時間は限られていましたが、自分たち両槻会スタッフが、沢山の方から見守っていただけているのを感じた定例会となりました♪ 総担当として頑張ってくれたももさんはじめ、スタッフ・サポートスタッフの皆さん、ありがとうございました♪
アンケート集計ページは、タイピングミスなどをチェックして、明後日くらいにネット公開する予定です。同時に配布資料のネット版も公開できる見込みです。金曜までには、当日レポートも出来る手はずですので、3点セットを飛鳥遊訪マガジン89号発行までには整えるつもりで作業を進めています。
お楽しみにお待ちください。
さて、タイトル記事です。
昨日、午後2時に自宅を出発。2時40分くらいに見学者の列に加わりました。暑かったです。列に付くまでにすれ違った救急車。熱中症なのかもしれないなと思う日差し。(/_;)約20分の待ち時間の後、いよいよ牽牛子塚と対面です。
何度も行っているので、南側の様子は分かっていましたが、三段築成とされる最下層の段にも幾つかのトレンチがありました。お聞きした所、切石が落ちていたりしたそうですが、葺石等は見つかっていないそうです。上部があれだけの造りなのに、下部はなにもされてないのか?と思ったのですが、どうなんでしょうね。
今まで草ぼうぼうだったので、北側を余り見ることが出来なかったのですが、墳丘全体が見えるようになっていました。
北側がメインの現場です。ぞろぞろと進んでいくと、八角形の角度が良く分かる敷石が綺麗に出ていました♪ 一見お寺などで見る犬走のようなきっちりと並べられた石敷きでした。ほー!綺麗やんか!が感想。(笑)
で、また少し北側によると石槨を取り囲む切石が見えてきました。デカっ! 以前から向かって左側に倒れた石は、先っちょだけ見えていました。けど、こんなにデカいとは。やっぱ実物見ないと実感できないですね。
推定16個の切石。石槨の周りに何の為に取り囲んでいるの? と、例の先生に聞いてみると、「分からん!」と直球のお答えが。(爆) 見たこと無いから。(^^ゞ 風人:いつか解明してください♪
お顔まで赤く焼けておられたし、疲労が顔ににじみ出ておられた。ご苦労様です。m(__)m
築造年代。7世紀後半頃。はい。ごもっともです。けど、そこからもう少し絞り込んで。(笑) 土器が出ないので難しいんでしょうね。
斉明7(661)年7月、斉明天皇は亡くなっています。北九州の朝倉宮での出来事です。同11月に、天皇を飛鳥川原に殯をする。
天智6(667)年2月27日条、「これよりさき、天豊財重日足姫天皇(斉明)と間人皇女とを、小市岡上陵に合葬したが、この日、皇孫太田皇女を陵の前の墓に葬った。
牽牛子塚古墳の前に、太田皇女の墳墓が無くてはならないのですけど、これはどこなんでしょうね?陵の前というからには、近くになくてはいけないように思うのですが・・。また、なぜ斉明天皇を葬った直接の記事が無いのでしょうか。不思議です。
661年から667年までの間に、斉明天皇は「小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)」に葬られたことしか分かりません。古墳の年代観は矛盾しないように聞きましたが、詳しくは、飛鳥遊訪マガジン89号にて。(笑)
もう一つの可能性は、続日本紀の文武天皇3(699)年10月条、「天下の有罪の人々を赦免する。ただし十悪と強盗・窃盗の者は赦免に入れない。越智山陵と山科陵とを造営しようとするからである。」
この時代くらいの古墳だとすると、間違いなく改葬ってことになりますが、前の古墳は?岩屋山古墳ってイメージなんでしょうか?。 まっ、それはともかく、キトラとかに時代が近いわけで、某先生が仰っているように、どうも違うんじゃない?ってσ(^^)も感じます。まっ、話を聞いたからでしょうけど。(笑)
さてさて、面白くなってきました。ちゃんとした記事は、金曜日に発行します飛鳥遊訪マガジンを楽しみにお待ちください。と、プレッシャーをかけておこう。(笑) m(__)m すみません。お忙しいのに。m(__)m
で、一杯の人を避けて、σ(^^)は白橿に降りて、岡寺駅から帰宅しました。
カメラのバッテリー切れに気付かず・・・、携帯で撮った写真しかない。(T_T)
どうにか第22回定例会のアンケートを集計し終えました。ふー!
飛鳥時代から始まる我国の瓦の歴史。マニアックな世界かもしれないですけど、そこにある面白さをほんの少しでも分かっていただく第一歩にしたくて今回の講演会を行いました。難しかったと回答された方もいらっしゃいましたが、概ね、こちらが意図したことをご理解くださった様子に、スタッフとしてほっと胸をなで下ろしています♪
どんな分野でもそうですけど、基礎ってじゃまくさいんですよ。やっぱり覚えないと仕方が無いこともありますのでね。そこには派手さもありません。けど、そこを越せればず~っと面白さは増えてくるわけで、いわば講師の岡田先生は一番難しいテーマに挑戦してくださったように思います。
講演会で、その一歩目を踏み出してくださった方もきっと居てくださると思います。博物館の瓦の展示の前で、きっと足を止めてくださるでしょう。その時に岡田先生の話を一言でも思い出して下されば、この定例会は大成功だと言えるように思いました。(^^)
改めて、岡田先生、集合場所に来て下さったアジクさん、急遽お呼びしてお話を頂きました成田先生、一般参加してくださったジョンスさん、ミクラスさん、ありがとうございました。
個々にお話しする時間は限られていましたが、自分たち両槻会スタッフが、沢山の方から見守っていただけているのを感じた定例会となりました♪ 総担当として頑張ってくれたももさんはじめ、スタッフ・サポートスタッフの皆さん、ありがとうございました♪
アンケート集計ページは、タイピングミスなどをチェックして、明後日くらいにネット公開する予定です。同時に配布資料のネット版も公開できる見込みです。金曜までには、当日レポートも出来る手はずですので、3点セットを飛鳥遊訪マガジン89号発行までには整えるつもりで作業を進めています。
お楽しみにお待ちください。
さて、タイトル記事です。
昨日、午後2時に自宅を出発。2時40分くらいに見学者の列に加わりました。暑かったです。列に付くまでにすれ違った救急車。熱中症なのかもしれないなと思う日差し。(/_;)約20分の待ち時間の後、いよいよ牽牛子塚と対面です。
何度も行っているので、南側の様子は分かっていましたが、三段築成とされる最下層の段にも幾つかのトレンチがありました。お聞きした所、切石が落ちていたりしたそうですが、葺石等は見つかっていないそうです。上部があれだけの造りなのに、下部はなにもされてないのか?と思ったのですが、どうなんでしょうね。
今まで草ぼうぼうだったので、北側を余り見ることが出来なかったのですが、墳丘全体が見えるようになっていました。
北側がメインの現場です。ぞろぞろと進んでいくと、八角形の角度が良く分かる敷石が綺麗に出ていました♪ 一見お寺などで見る犬走のようなきっちりと並べられた石敷きでした。ほー!綺麗やんか!が感想。(笑)
で、また少し北側によると石槨を取り囲む切石が見えてきました。デカっ! 以前から向かって左側に倒れた石は、先っちょだけ見えていました。けど、こんなにデカいとは。やっぱ実物見ないと実感できないですね。
推定16個の切石。石槨の周りに何の為に取り囲んでいるの? と、例の先生に聞いてみると、「分からん!」と直球のお答えが。(爆) 見たこと無いから。(^^ゞ 風人:いつか解明してください♪
お顔まで赤く焼けておられたし、疲労が顔ににじみ出ておられた。ご苦労様です。m(__)m
築造年代。7世紀後半頃。はい。ごもっともです。けど、そこからもう少し絞り込んで。(笑) 土器が出ないので難しいんでしょうね。
斉明7(661)年7月、斉明天皇は亡くなっています。北九州の朝倉宮での出来事です。同11月に、天皇を飛鳥川原に殯をする。
天智6(667)年2月27日条、「これよりさき、天豊財重日足姫天皇(斉明)と間人皇女とを、小市岡上陵に合葬したが、この日、皇孫太田皇女を陵の前の墓に葬った。
牽牛子塚古墳の前に、太田皇女の墳墓が無くてはならないのですけど、これはどこなんでしょうね?陵の前というからには、近くになくてはいけないように思うのですが・・。また、なぜ斉明天皇を葬った直接の記事が無いのでしょうか。不思議です。
661年から667年までの間に、斉明天皇は「小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)」に葬られたことしか分かりません。古墳の年代観は矛盾しないように聞きましたが、詳しくは、飛鳥遊訪マガジン89号にて。(笑)
もう一つの可能性は、続日本紀の文武天皇3(699)年10月条、「天下の有罪の人々を赦免する。ただし十悪と強盗・窃盗の者は赦免に入れない。越智山陵と山科陵とを造営しようとするからである。」
この時代くらいの古墳だとすると、間違いなく改葬ってことになりますが、前の古墳は?岩屋山古墳ってイメージなんでしょうか?。 まっ、それはともかく、キトラとかに時代が近いわけで、某先生が仰っているように、どうも違うんじゃない?ってσ(^^)も感じます。まっ、話を聞いたからでしょうけど。(笑)
さてさて、面白くなってきました。ちゃんとした記事は、金曜日に発行します飛鳥遊訪マガジンを楽しみにお待ちください。と、プレッシャーをかけておこう。(笑) m(__)m すみません。お忙しいのに。m(__)m
で、一杯の人を避けて、σ(^^)は白橿に降りて、岡寺駅から帰宅しました。
カメラのバッテリー切れに気付かず・・・、携帯で撮った写真しかない。(T_T)
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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
別名、風使部とも呼ばれております。
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