今日の朝日新聞の一面にこんな記事が出ていた。
『飛鳥寺のモデル、韓国の王興寺か 塔の構造、出土品似る』
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200804150318.html
百済の扶余に在った王興寺というお寺が発掘調査されており、その結果、百済王の発願で577年2月に創建されたことが判明したのだそうです。ただし、この発掘成果は、昨年の10月のことであったようです。検索で見つけました。朝鮮日報の記事です。
http://www.chosunonline.com/article/20071025000052
http://www.chosunonline.com/article/20071025000053
で、この年577年(敏達6年)ですが、百済は飛鳥からの使者である大別王らが帰国するに付して、経論若千巻、ならびに律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工の6人をたてまつったとの記事が日本書紀にあります。飛鳥寺着工が587年だから、ちょうど10年前のことです。
飛鳥と百済とは親密な関係にあり、この後も、僧や瓦博士や画工などもやって来ます。飛鳥寺の素弁蓮華文軒丸瓦は、百済の様式だとされ、実際に見てもσ(^^)には区別がつかないほど似ています。王興寺の技術職人が、そのまま飛鳥寺の建立にも関わった可能性もあるのかもしれないですね。
しかし、記事を読んで、今更な感もありました。
飛鳥寺が一塔三金堂の伽藍様式であることが、これまでも問題になってきたわけで、百済一辺倒の様式ではないことが、面白いのだと思ってきました。高句麗の様式と百済の様式が混じるところに、この時代の東アジアの微妙な力の均衡が反映されているようでもあり、形としてそれが具現しているところに、その面白味があるのだとσ(^^)は考えていました。
記事には、王興寺の推定伽藍は四天王寺式伽藍を想定しているようですが、王興寺の回廊が特殊な形であり、それが一塔三金堂に発展したのかとのコメントもありました。
まっ、ご近所さんのブログが書きはるでしょうから、考古学的なことは、そこそこにしておきますが、σ(^^)は、やはり飛鳥寺には、百済だけではなく、多くの高句麗的要素も加わっているものと思います。
高句麗の高僧・慧慈は、推古天皇3年(595年)、百済の恵聰とほぼ同時期に高句麗の嬰陽王の命によって飛鳥に来ており、太子の仏教の師とされました。百済僧の恵聰とともに飛鳥寺に住み、飛鳥寺の建立にも深くかかわったと思われます。また、高句麗の嬰陽王は、飛鳥寺中金堂の本尊を鋳造する時に、黄金300両を献じています。
高句麗には、一塔三金堂の様式で建てられたお寺があります。平壌の5世紀末の清岩里廃寺・6世紀の定陵寺などです。百済が四天王寺式伽藍を特徴としてお寺を建設していたとすれば、その発展形として、隣国にすでにあった伽藍様式に似た物を作るでしょうか? σ(^^)の答はノーです。
僅かな新聞記事だけを読んだ感想にもならない思い付きですが、?って感じで読み終わりました。けど、百済と飛鳥が非常に親密であったことは確かで、王興寺も何らかの影響をもたらせたのでしょう。それは間違いのないことです。発掘は、継続されているようですので、興味深く見ていたいと思います。
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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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