竹田遺跡現地見学会♪
飛鳥時代の高位・高官の邸宅跡の発見♪
現地見学会:
平成18年11月23日(祝) 午前10時~午後3時 (説明はありません。)
明日香村公式HP
って、言うことです。
2007年の発掘成果については、こちら♪
発見されたのは、7世紀後半ごろに建てられた10棟の建物跡。
(・・と報道もあったのですけど、7世紀後半の建物は6棟のようです。
全体としては10棟との報道と11棟という報道があります。)
柱の据え付け穴が約1mと大きいため、高位・高官の邸宅跡とみられるようです。
これらの建物がどのように関連して、あるいは別の物として建っていたのか、
その辺を現地や資料図面でしっかり見たいと思っています。
飛鳥真神原の東にある小原・八釣の地は、
高級住宅街であったのかも知れません。
この地は、東の多武峰に続く緩やかな丘陵をなしています。
真神原は、宮殿やお寺がその大部分を占めていますから、
実際に人が住む場所は、その周辺部と言う事になります。
北は、沼沢地や湿地が多かったかも知れませんので、
やはり東の丘陵部は、人が住みよい場所になると思います。
先日から書いていた謎の歌群(笑))は、そのことを示しているようでもあります。
邸宅の持ち主の名前は、今のところ特定は出来ないようですけれど、
妄想が広がるニュースではあります♪
その住まいの持ち主の一人に、新田部皇子を上げることが出来ます。
万葉集には、下にも書いた人麻呂が新田部皇子に捧げた歌があります。
矢釣山 木立も見えず 降り乱る 雪に騒きて 参らくよしも
人麻呂らしいおべっかたっぷりの歌です。(^^ゞ
新田部皇子は、天武天皇と藤原鎌足の娘五百重娘の間に出来た子供です。
この五百重娘は、大原大刀自とも呼ばれるように、
明日香村小原(大原)に住まいしていました。
それは、
我が里に 大雪降れり 大原の 古りしにし里に 降らまくは後
我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
天武天皇との歌のやり取りで伺うことが出来ます。
小原と八釣は隣接する地域で、発掘現場と大原神社とは直線で約300mしか離れていません。この辺りが、藤原氏と所縁のある地であることなどからも、
(小原には、鎌足生誕の地との伝承もあり、大伴夫人の墓や産湯の井戸と言われる物もあります。) 新田部皇子が住んでいた邸宅跡だと考えても説得力を伴う妄想と言うことが出来ます。
新田部皇子は、天武天皇の第10子で、飛鳥時代の末期に誕生したのではないかと思います。
特に目だった活躍は無く、首皇太子(のちの聖武天皇)の補佐役に任命されたり、長屋王の変の時に藤原方として、王を尋問し自害に追い込んだりしています。
皇子は、母の影響もあるのか飛鳥に住まいしていた時から、
藤原氏との関係を深く持っていたのでしょう。
あっ、五百重娘は、後に不比等との間に藤原4兄弟の一人「麻呂」を生しています。新田部皇子とは、異父兄弟と言えます。
そのことがより藤原氏寄りにすることになったのかもしれませんね。
もう一つおまけを書けば、新田部皇子の平城京での住まいが、後に唐招提寺となります。
そんなことを思いながら、現地見学会に参加するのは楽しいことではないでしょうか♪
飛鳥時代の高位・高官の邸宅跡の発見♪
現地見学会:
平成18年11月23日(祝) 午前10時~午後3時 (説明はありません。)
明日香村公式HP
って、言うことです。
2007年の発掘成果については、こちら♪
発見されたのは、7世紀後半ごろに建てられた10棟の建物跡。
(・・と報道もあったのですけど、7世紀後半の建物は6棟のようです。
全体としては10棟との報道と11棟という報道があります。)
柱の据え付け穴が約1mと大きいため、高位・高官の邸宅跡とみられるようです。
これらの建物がどのように関連して、あるいは別の物として建っていたのか、
その辺を現地や資料図面でしっかり見たいと思っています。
飛鳥真神原の東にある小原・八釣の地は、
高級住宅街であったのかも知れません。
この地は、東の多武峰に続く緩やかな丘陵をなしています。
真神原は、宮殿やお寺がその大部分を占めていますから、
実際に人が住む場所は、その周辺部と言う事になります。
北は、沼沢地や湿地が多かったかも知れませんので、
やはり東の丘陵部は、人が住みよい場所になると思います。
先日から書いていた謎の歌群(笑))は、そのことを示しているようでもあります。
邸宅の持ち主の名前は、今のところ特定は出来ないようですけれど、
妄想が広がるニュースではあります♪
その住まいの持ち主の一人に、新田部皇子を上げることが出来ます。
万葉集には、下にも書いた人麻呂が新田部皇子に捧げた歌があります。
矢釣山 木立も見えず 降り乱る 雪に騒きて 参らくよしも
人麻呂らしいおべっかたっぷりの歌です。(^^ゞ
新田部皇子は、天武天皇と藤原鎌足の娘五百重娘の間に出来た子供です。
この五百重娘は、大原大刀自とも呼ばれるように、
明日香村小原(大原)に住まいしていました。
それは、
我が里に 大雪降れり 大原の 古りしにし里に 降らまくは後
我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
天武天皇との歌のやり取りで伺うことが出来ます。
小原と八釣は隣接する地域で、発掘現場と大原神社とは直線で約300mしか離れていません。この辺りが、藤原氏と所縁のある地であることなどからも、
(小原には、鎌足生誕の地との伝承もあり、大伴夫人の墓や産湯の井戸と言われる物もあります。) 新田部皇子が住んでいた邸宅跡だと考えても説得力を伴う妄想と言うことが出来ます。
新田部皇子は、天武天皇の第10子で、飛鳥時代の末期に誕生したのではないかと思います。
特に目だった活躍は無く、首皇太子(のちの聖武天皇)の補佐役に任命されたり、長屋王の変の時に藤原方として、王を尋問し自害に追い込んだりしています。
皇子は、母の影響もあるのか飛鳥に住まいしていた時から、
藤原氏との関係を深く持っていたのでしょう。
あっ、五百重娘は、後に不比等との間に藤原4兄弟の一人「麻呂」を生しています。新田部皇子とは、異父兄弟と言えます。
そのことがより藤原氏寄りにすることになったのかもしれませんね。
もう一つおまけを書けば、新田部皇子の平城京での住まいが、後に唐招提寺となります。
そんなことを思いながら、現地見学会に参加するのは楽しいことではないでしょうか♪
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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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