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薩摩遺跡のニュースが本格的に出てきた朝から、むくむくと疑問が・・。
紀路が見つかったってタイトルと、作業員さんが手を広げて側溝?を示している説明ばかりだった。

ぅっんだけど、写真の中央に写っているのは、紛れも無い大壁建物の柱穴列♪ 
古墳時代の建物のようで、5棟が検出され、最低でも3回の建て替えがあった模様、と報じたのはつい先ほど(9時ごろ)の読売ネットニュースだった。なんで、こういうニュースの出方するのかな? 
高取町教委も、奈良時代の紀路の脇道?とか本体かもと言っているだけ。

遺構の全体図を見てみたい!

で、写真を見ていると、ほんまかいな?って感じたりします。現場も見てないので、何も言えないのですが、紀路が出た~!なんて、喜んでばかりもおれないのかも。
淡々と伝える記事も欲しい。妄想するのは、受け手だけで良いような気がする今日この頃です。(笑)

sIMG.jpg
 
こんなのが舞い込んできました♪ (笑)

奈良芸術短期大学卒業製作展 専門科終了製作展 教授小品展
会期 2月20日~2月23日 午前9時30分~午後4時30分
会場 奈良芸術短期大学内

なぜ、芸術の才の無い風人に、このようなはがきが来るのかは、大きな謎です!(爆)
そう言えば、秋の学祭にも行ってましたな!(^^ゞ 謎!

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22日(日)、高取町薩摩遺跡の現説らしい。 紀路が発見されたとか!
日曜日だから空いているのだけど、21日に下ツ道を踏破した翌日、10時からってのはきついぞ!
一回だけなんかな~・・・。 昼からでも行けんか。(^^ゞ

しかし、頭の容量をすでに超えている!

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上着が要らないかと思った金土日。寒さで凍えそうな月火水。
身体が付いて行きませんな!

σ(^^)、ひょっとしてもの凄い物知りかと思いました。(爆) 錯覚ですけど。(^^ゞ

というのは、先日の石神遺跡現説でのこと。先生方とお話をしていて、「奧山廃寺式の瓦」の話が頻繁に出てきました。その奧山廃寺式軒丸瓦の瓦当文様が、頭に描けるのです。σ(^^)! 
調べたら合っていました♪ ひょっとして天才!(^^ゞ などと思いましたがな。(笑)

まっ、某もさんみたいに、奧山廃寺式のⅡ式とかⅢ式?(A~Eって分類するの?)なんてとこまでは、とても分かりませんがね。分かったら怖い!(^^ゞ 
長年、こんなことをやってると、覚えるんですね!忘れてることの方が遥かに多いですけど、σ(^^)にとって印象に残りやすかったのかな? よー分かりませんが、ちょっぴり嬉しかったりしました。

煽てられた豚は、直ぐに木から落ちるのですが、少しは上からの景色も満喫したいと!(爆)

週末の下ツ道ウォーキングの後は、瓦の世界に行くσ(^^)。
何も分からんと言う情けない思いを、少しは回避できる程度には勉強しなきゃと。
こういうのを泥縄と言う。それもまだ綯い始めてもいない♪ (^^ゞ 勉強しなくちゃね。 
ややびびってますかねσ(^^)。(爆)

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風邪薬飲んであんなになった人は見たことが無い。
酒飲んであんなになる人は、毎週見ているような気がする。

お大事に。 

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面白かった♪
二つの現説にどっぷり漬かった一日♪
とっても楽しかった。o(∩.∩)o

石神遺跡第21次調査現説
難しい遺構だった。まだ理解出来てないかも。(^^ゞ
先生方に、たくさんサポートの説明をしていただいて、どうにか分かりかけたかなって感じ。お手間を掛けました。m(__)m
とりわけT先生には、たっぷり丁寧に説明していただいた。m(__)m感謝。

お寺以外には、瓦葺の屋根がほとんど存在しないとされてきた飛鳥時代。宮に瓦が使われたのは、藤原宮を待たなくてはならない。今回、門だと思われる基壇周囲の雨落ち溝から、瓦が多数出土した。量的に屋根一面に葺かれていたとは思われず、棟などの一部に瓦が葺かれていたと推定された。
上部の遺構が削平されているので、断定は出来ないようです。ひょっとして礎石があったのかも知れないし、瓦も別の建物に転用されたかもしれないので、完全な瓦葺の屋根を持っていたのかも知れません。

また、これに先行する二つの時期にも、塀に取り付く(塀の柱穴列を共有する)建物があり、一例は庇を持つ門ではないかと推測された。もう一例も門ではないかとされていた。
しかし、柱列の間隔が狭く、通路としての幅があまりにも狭いのではないかと、σ(^^)は感じました。
これらの他にも塀と東の柱列を同一線上に持つ総柱建物が検出されており、塀を東壁とする建物と言えるかもしれない。

時代は全く別になるが、長屋門などがイメージとしてσ(^^)には思い起こされたのだけど、どうだろうか。建築のことなど、何一つ知らないので分からないけれど。これらの建物や施設は、類例の少ない珍しい建物で、門であると断定出来ないのではないかとも、σ(^^)は思った。

これらの建物は、7世紀前半から中頃に掛けて建て替えられており、活発な改修工事が行われていたことを表しているようです。

斉明天皇の時代の石神遺跡の東限と思われる塀が検出され、石神遺跡の広がりがほぼ確定された。東西130m、南北180m。東限塀の東には、塀に沿って約16mの空間があり、山田道と飛鳥の中心部を結ぶ道路ではないかと推定される。

石神の調査がこれで終了されるのは残念だ。やや消化不良気味です。

斉明天皇の迎賓館とされる時代に先行する遺構が出ているのだけど、徐々に造られていった迎賓館的建物の遺構なのだろうか。石神遺跡の南端付近で、推古天皇の頃の瓦が出土している。(奧山廃寺式) 推古天皇20年には、小墾田宮の南庭に須弥山石を築いたことが書かれています。また、斉明天皇の元年には、瓦葺の小墾田宮を建設しようとして失敗した話が記載されている。これらのことを考えると、小墾田宮の一部である可能性も否定できないかもしれない。そんなことをふと思った。



飛鳥京外郭北部の調査現説
ほぼ先日見ていた通りだった。建物は一部検出されたのみで、全体像はまだ分からない。飛鳥京の基幹排水路の全体像もまだつかめない感じ。

検出された建物跡が官衙である可能性が強いとされた。砂利敷きの南庭を持っているので、役所の中心的な建物であったのだろうと思えた。
東西基幹排水路は、立派な石組み溝で、前回調査で検出された東西溝に連結すると思われるが、東は先の建物に行き当たるので、どのように続いて行くかは不明だ。けれど、飛鳥は南東に高く、北西に低いので、それに矛盾するような水路は考えられない。飛鳥京東限に沿って流れる基幹排水路に繋がっているのだろうと思った。

この東西溝が、飛鳥京外郭の北限と考えられてきたのだけれど、溝の延長線のさらに北になる場所から官衙と推定される建物が検出され、北限がさらに北に延びるのではないかとされた。
しかし、溝の南に北限の塀があった可能性もあるのではないかと思うので、北限が北に延びるとも限らないように思う。

飛鳥寺の南と飛鳥京の間の空間は、これからもまだまだ興味深い。


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やっと、分かる記事が出てきた。(12:30)
「短期間に3回建て替えられた」 奈良新聞
そうでしょう! そうでないと変ですよね。 「数十年間に」なんて必要ない文字ですよ。

南北方向の素掘溝(雨落溝)は、東側に突出部を持っており、この部分が階段と想定されるとのこと。門という推測もこれが根拠の一つとなっているようです。

東側の塀に沿って、幅17m程の道路が南北に走っており、遺跡の北側にあった(斉明朝)山田道から飛鳥中心部へ通じるルートと考えられるとのこと。

やっと分かってきた。(^^ゞ 次に進もう。
なぜ東門を立派に見せようとしたのだろうか。 東が玄関口だったのかな。
石神遺跡の遺構図を見ていると、石敷きの広場を持つ建物群(饗宴施設とされている)は、南の方に在る。須弥山石が出土した地点は、南端だったはず。入ってすぐに庭ってのも変だなと思うのだけど、どんなもんでしょう? 前庭ってありますよね。(^^ゞ 

石神に在った迎賓館の正門は、何処に在ったのでしょうね。この東門でしょうか。
南北の道路が山田道と飛鳥の中心を結ぶとのコメントがあったけど、この道を南に真直ぐ行っても、飛鳥の中心部にはダイレクトには行けないですよね。(^^ゞ でもないか! 丁度西大垣の西側ぐらいになるかな? 飛鳥寺の西門の前に出ますね♪
石神遺跡の建物配置からすると、遺跡の西側って付属の建物が多いような感じで、迎賓館としては裏方の建物ですよね。それに西側は段差がある。そっちに正門は無いだろうと思うのです。
だとしたら、この門が正門ってことになるのかな? 少し北に寄ってるようにも思えるが。主要建物に、北から入って行くことになるんじゃないかと、そこは気になる点ですね。

石神遺跡の調査は、この21次までとか。全成果をまとめていただいて、読んでみたいな。

下図は、石神遺跡第21次調査区の前に掲示されている案内板の遺跡配置図。

sP1090441.jpg



どうも分からん!
  • 7世紀前半から中頃の掘立柱建物 (南北5.4m×東西8.1m)
  • 掘立柱塀 (南北約25m)
  • 溝 (長さ約16m、幅1.5m、深さ20cm・大量の瓦が埋まっていた)
  •  
  • 塀の東側が道路と考えられるので、建物は門である。
  • 門は、何度も建替えられており、一緒に出土した土器から、7世紀前半から中頃と考えられる。


読売新聞
「7世紀前半の南北に約25メートル延びる塀跡と東西約6メートル、南北10・5メートル以上の建物跡が出土。7世紀中頃の瓦が大量に埋まった長さ約16 メートルの溝跡などが見つかった。建物を造り替える時に瓦ぶきにしたらしい。」 

これでも、斉明天皇の迎賓館と言われる石神遺跡の時期よりも早い時期に塀があったように受け取れるんだよね。(^^ゞ で、その塀は、何を囲っていたの? 石神遺跡の迎賓館的施設って、いつ出来たの? 7世紀前半っていうとどの天皇なんでしょう? 皇極なんていうと中頃ですよね。推古・舒明ってことになるんでしょうか・・。

『数十年間に3回建て替えられ、最後(最盛)の時期には、屋根の一部に瓦を葺いていた。』
この文章↑、どう考えても変!
斉明天皇の時代に瓦葺になったと書いているから、石神遺跡は斉明天皇から数十年前にあったことになる。変ちゃうん! 19次調査だったかに、推古天皇の時代の遺構が出たことはあったように思うのだけど・・・。

この文章構成が、そもそも拙いんじゃないのかな? 記者発表資料を見たいぞ!

「7世紀前半から中頃にかけて建てられたと思われる掘立柱建物が検出された。厳密な建設時期は特定出来ず、数十年の幅を持つとしか言えない。建物は3回建て替えられており、最終段階で屋根の一部に瓦を葺いた可能性がある。それは遺構時期の上限である斉明天皇の時代だと思われる。」
こういうことなら分かるんだよね。正しいかどうかは別にしてだけど。(^^ゞ 

「数十年間に3回建て替えられ」だと、スタートが数十年前になってしまうんじゃないかな? どうも、ここに引っかかってしまう。 σ(^^)だけなんだろうか?

「軒に使う瓦は見つかっておらず、屋根の頂上部だけに瓦を使ったとみられる。」
ってことで、読売新聞は書いてます。
棟門みたいな感じなのかな?熨斗瓦だけを乗っけたような。。。(^^ゞ 
小さな鄙びたお寺にあったりしますよね。(^^ゞ 立派に見えたんだろうか・・。ぼそぼそ!(笑)

建物の規模が、メートルで表現されているけど、何間だったのだろう。
柱穴の径は?
塀は建物の中心から延びているんだろうか。
略図で良いから、遺構図載せて欲しい。
どうもすっきりしない! なんやねん!
行ってみないと分からんか。(笑)


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23:00 まだ携帯で見ているだけなんですけど、疑問が膨れる! 追加報道はあったのかな?

疑問のまとめ
  • 斉明天皇の頃に造られたとされてきた迎賓館=石神遺跡に、突然数十年前から施設があったというのはどういうことなのか?その説明は無いのか?何の施設だったのか?どの時代の遺構が検出されているのか?今までの調査で検出されなかったのはなぜ? 石神遺跡は、斉明・天武・藤原京の3期に渡る遺跡だと思っていたが。
  • お寺以外で、瓦葺の建物が斉明天皇の頃にあったとすれば、大ニュースなのでは?
  • ニュース写真では、軒丸瓦らしき物が見えてないのは、取り上げ済みだから?単に写真が悪いだけなのか?軒丸瓦が出ていれば、瓦当文様は?
  • 瓦葺だとすると、礎石が無いのはなぜ?屋根の一部に瓦を葺いていたというのは、そういう意味なのか。周囲だけとか、棟のところだけとか・・。周囲なら軒丸瓦も出土しないといけないので、棟? 熨斗棟? 熨斗瓦だけなん?
  • 門の規模は? というより、門とした根拠は東に道路らしき空間があるだけ? 塀がくっついているからか。
  • なぜ東門が立派なのか?16~17m幅の道路と思われる空間があるようだけど、それも斉明朝から数十年前からあるのか?
  • その道路は、山田道とどう関わるのか?

ぅう~ん!現説は、何方かを質問攻めにしないといけないようだ。I先生、T先生よろしくお願いします。(笑)


:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

ニュースが出始めました♪ 只今、18時50分

お寺じゃないのに瓦葺だって! 門が!  斉明朝だって♪
東門と言うことだけど、どんなん? 見たい♪
瓦はどんなん? 見たいやん!どんな瓦当文様?どこか報道して~!
なんや面白そうですやん♪

この項はニュースに合わせて、暫時追記・改訂します。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

どうも報道が分かりにくい!・・・・・

A:「数十年間で3回建替えられ、最盛期の斉明天皇の時代に瓦葺になったらしい・・・・」共同通信
B:「建物はほぼ同じ場所で数十年間に3回、建替えられ、最後の時期は、屋根の一部に瓦を葺いていた可能性がある・・・」 NHK

どういうことなんでしょうか!
斉明天皇ってのは、655年~661年ですよね。?
石神遺跡は、斉明天皇の頃に造られた迎賓館的な建物群と苑池のはず。
上のニュースを読めば、斉明天皇の頃を最盛期とする遺跡みたいに読めるんだけど。
斉明天皇の頃から、数十年前の初期の門って、どういう施設の門なんでしょうか?時代は?

疑問
1:いつの時代の門に瓦が葺かれていたん?斉明朝なら、お寺以外の最初の瓦葺じゃ?
2:3回建替えられたって、建替えられたのは、どの時期とどの時期だったの?
3:この門の最初っていつの時代?斉明から数十年前って事なら、推古?舒明? 
4:屋根の一部が瓦葺ってどういう意味? 一部だけ瓦の建物って・・・・。 あっ!無いことも無いか・・。(^^ゞ
5:なんで東門が立派なん? 他の方角の門が見つかって無いだけ?ってことは無いですね。

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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
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性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使 
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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