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風邪で回らぬ頭の中に、阿斗河辺館がぐるぐる回る!(笑)
マニアックすぎるっちゅうねん!(爆)

布団に入ってからも、もやもやしてました。(^^ゞ
阿斗河辺館ってずっと大和川の河辺に建つ館と信じてて、安堵(アンド)町との音も似てるなと思ってました。安堵町は大和川の支流が寄り合う場所。飛鳥川や佐保川や初瀬川・寺川・曽我川とか。そんなところに阿斗という川港があって、桑をシンボルとした阿斗桑市なんて市場も在ったと想像していました。

敏達12年に日羅が住んだり、推古18年に新羅使を休ませたりしてます。その後、新羅使は小墾田宮の南門から朝庭に入っています。
阿斗河辺館が大和川沿いに在れば、大和川(初瀬川)を遡行して海石榴市から山田道を通って小墾田宮に向かうことが想像が出来るのです。ので、ずっとそう思っていたのです。妄想が激しいもので。(^^ゞ

最近読んだ資料によると、田原本町付近を想定してあった。そうすると、陸路海石榴市に向かうか、寺川を遡行することになります。陸路を海石榴市に向かう理由は、薄いのではないかなとσ(^^)は思ったりもしました。下ツ道が当時存在していたなら、下ツ道から飛鳥川沿いに飛鳥に向かうことは可能だと思うのだけれど。微妙? 裴世清が来たのが推古16年だからね。下ツ道がもっと早く完成していたら、裴世清も海石榴市には回らなくて良かったと思うしな~!一部開通なんて事は、今でもあるからな~!(^^ゞ 例の6末7初って須恵器の蓋はどうなるの?とか、またしてもぐるぐると。(笑)
当時、太子道(未整備かもしれないけど)は在ったのだと思うので、斑鳩から田原本付近まで陸路を使ったのかな?で、保津坂手斜行道を海石榴市へ?ありえないとは言えないか・・・。そうすると阿斗河辺館も・・・。またまたぐるぐるぐる!

もちろん、阿斗河辺館が確定しているわけではないのだから、どちらにしても想定でしかないのだけれど。
そんなことを夢うつつに考えていたら、眠れなくなってしまった。(笑)

が!おかげさまで、風邪の症状は緩和してきました♪

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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使 
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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