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(図の内容に関して責任は持ちません。あくまでも妄想図です。)
下の記事の掲載図に、書記に書かれている小墾田宮の様子を描き込んでみました。
もちろん、妄想図です。実際に現場に立つと建物規模とかが矛盾するかも知れないです。
南に門があって、大殿と政庁があり、朝廷と思われる庭があるようです。
天皇の邸宅を宮と言った時代からは宮の概念が変わってきたように見受けられます。
小墾田宮の位置関係について参考にしているのは、飛鳥資料館のジオラマですけど、ジオラマには小墾田宮とは書かれていません。念のために。 どう見ても小墾田宮ですけどね。(笑)
ただし、いつ時代の物を再現してあるのかは分かりません。
周辺の建物の様子からは、天武期以降のようです。藤原京期かも。
先日の山田道発掘前の資料による製作だとは思うのですけど、まだ聞いていないので分かりません。
言いたいのは、σ(^^)の妄想とぴったりはまったってことです♪
山田道が、宮の大垣?に当たるところで直角に曲がるように出来ている一方、
小墾田宮の山田道がぶつかるところに東門があり、宮域内の道路に繋がっています。
その宮域の道路に面して宮の南門があったように描いています。
要点は、雷丘の切通部が道路ではなく、宮域だったという点です。
切通を道路(山田道)と考えていたので、いろいろと矛盾を感じていました。それは今まで書いてきたとおりです。
宮域を作るための開削ってことでも良いんですもんね。 盲点だった!(笑)
σ(^^)だけかも知れんけど。(^^ゞ
山田道は、甘樫丘の北を通りますけど、このままでは豊浦寺辺りにぶつかってしまいます。
ですから、一度北上してから西に向かうものと思います。
それは、おそらく今の橿原と飛鳥を結ぶバス路線と変わらないのではないかと。
剣池などとの位置関係から思うに、そんなには変化はないでしょうね。
ぅんなことで、小墾田付近の様相も妄想の中では見えてきました♪
あっ! 百貫川と言うのは、今は用水路のようですけど、木の葉堰(弥勒石の南の堰)から発して、雷の東浦辺りを北流して中の川に合流。北に流れて香具山を西から回り込み、橿原市内で米川と合流、寺川に流れ出た後に大和川となります。 図では、若干東に寄ってしまったかも知れないです。(^^ゞ
飛鳥川が雷の東を流れていた時の痕跡かもって思ったりしたのですけど、思い付きです。(^^ゞ 根拠はありません。m(_ _)m
ただ、これで全てがすっきりしたわけではないです。
雷丘には、5世紀の古墳があったわけで、宮域に古墳があって良いものなのかどうか・・・。
まっ、藤原京も平城京も古墳を潰して宮にしているんですから、当時はそういう考えだったのかも・・・。 でも、7世紀の石室?ってのまであるのはどうなんだろう・・・。 そもそもあれは石室だったのか? (^^ゞ
また反面、天武天皇の庵があったというのには、都合が良いかもしれないですね。
大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも 人麻呂
飛鳥資料館の新ジオラマを見ていると、いくらでも遊べるσ(^^)。
皆さんも是非♪ そのついでに、両槻会のチラシも見てくださいね♪ (笑)
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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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