酒船石遺跡は、両槻宮であるとかその一部であるとする説が、近年盛んに言われてきました。
亀形石造物や酒船石の存在など、いかにもそれらしい謎の石造物がある事も一層の拍車をかけたように思います。
酒舟丘陵を標高130mで2m以上の高さを持って取り囲む切石の壁。
丘の西側は、4段の石列が囲み、見上げるとまるで階段ピラピッドの様に見えたのではないかと推測されます。
地山を削り取って版築を重ね、改めて飛鳥石の基礎を並べた上に切り石を積み重ねるといった半人工の丘と言える大工事をなしています。
石を運ぶ運河を掘るために3万人が動員され、この丘を築くために7万人が必要とされたと書かれています。全長700m以上になるという石垣を考えると、それも肯ける規模となります。
亀形石造物は、現状では竹薮の下に明るい広場のようになっていますが、施設のある谷底のような窪地に立つと、前面は切り立った石の丘に見えていたのではないかと思われます。
現状では、万葉文化館建設のために切り開かれていますが、当時は丘が両側から包み込むように迫っていたようで、閉鎖的な密室のような空間であったように思われます。 それはきっと特別な人のみが立ち入りを許されたきわめて特殊な施設ではなかったかと想像されます。
亀形石造物を含めたこの一連の導水施設が何であるのかは、現状ではまだ確定的な説明はなされてはいません。ただ、水を使った何らかの祭祀に関連することは間違いないのではと思います。
湧水施設からの水を舟形の水槽にいったん溜めて、その上水を亀形石造物に流している点など、大量の水ではなく、綺麗な少量の水を必要にしていたようにも見えます。
酒舟丘陵との関連は明確ではありませんが、その丘陵上にある施設に向かう導入部分であるのではと・・・。たとえば、祭祀を執り行う祭壇に向かう手水所なのではと妄想が膨らみます。
書紀の記事を読む限り、この酒船石遺跡は「宮の東の山」ではあるのですが、両槻宮の記事とは別のものとして書かれているように思えます。
日本書紀 斉明天皇2年(656年)条
『 田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以ってす。 (田身は山の名なり。此をば大務と云う。) また、嶺の上の両つの槻の樹の辺りに、観を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮と日ふ。
時に興事を好む。すなわち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以って、石上山の石を載みて、流れの順に控引き、宮の東の山の石を塁ねて垣とす。時の人謗りて曰く、「狂心の渠。功夫を損し費やすこと、三万余。垣を造る功夫を費やし損すること、七万余。宮材爛れ、山椒埋もれたり」といふ。
又、謗りて曰く「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」といふ。 』
祭祀の場として造られた酒船石遺跡。別の目的で建設された両槻宮。もう少し妄想を展開してみたいと思います。
飛鳥資料館ロビー模型 ( 奈文研の掲載許可取得済み )
若干加工してあります。m(__)m
亀形石造物や酒船石の存在など、いかにもそれらしい謎の石造物がある事も一層の拍車をかけたように思います。
酒舟丘陵を標高130mで2m以上の高さを持って取り囲む切石の壁。
丘の西側は、4段の石列が囲み、見上げるとまるで階段ピラピッドの様に見えたのではないかと推測されます。
地山を削り取って版築を重ね、改めて飛鳥石の基礎を並べた上に切り石を積み重ねるといった半人工の丘と言える大工事をなしています。
石を運ぶ運河を掘るために3万人が動員され、この丘を築くために7万人が必要とされたと書かれています。全長700m以上になるという石垣を考えると、それも肯ける規模となります。
亀形石造物は、現状では竹薮の下に明るい広場のようになっていますが、施設のある谷底のような窪地に立つと、前面は切り立った石の丘に見えていたのではないかと思われます。
現状では、万葉文化館建設のために切り開かれていますが、当時は丘が両側から包み込むように迫っていたようで、閉鎖的な密室のような空間であったように思われます。 それはきっと特別な人のみが立ち入りを許されたきわめて特殊な施設ではなかったかと想像されます。
亀形石造物を含めたこの一連の導水施設が何であるのかは、現状ではまだ確定的な説明はなされてはいません。ただ、水を使った何らかの祭祀に関連することは間違いないのではと思います。
湧水施設からの水を舟形の水槽にいったん溜めて、その上水を亀形石造物に流している点など、大量の水ではなく、綺麗な少量の水を必要にしていたようにも見えます。
酒舟丘陵との関連は明確ではありませんが、その丘陵上にある施設に向かう導入部分であるのではと・・・。たとえば、祭祀を執り行う祭壇に向かう手水所なのではと妄想が膨らみます。
書紀の記事を読む限り、この酒船石遺跡は「宮の東の山」ではあるのですが、両槻宮の記事とは別のものとして書かれているように思えます。
日本書紀 斉明天皇2年(656年)条
『 田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以ってす。 (田身は山の名なり。此をば大務と云う。) また、嶺の上の両つの槻の樹の辺りに、観を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮と日ふ。
時に興事を好む。すなわち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以って、石上山の石を載みて、流れの順に控引き、宮の東の山の石を塁ねて垣とす。時の人謗りて曰く、「狂心の渠。功夫を損し費やすこと、三万余。垣を造る功夫を費やし損すること、七万余。宮材爛れ、山椒埋もれたり」といふ。
又、謗りて曰く「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」といふ。 』
祭祀の場として造られた酒船石遺跡。別の目的で建設された両槻宮。もう少し妄想を展開してみたいと思います。
酒船石遺跡復元モデル
飛鳥資料館ロビー模型 ( 奈文研の掲載許可取得済み )
若干加工してあります。m(__)m
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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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