久しぶりの連荘現説です♪
高取町で行われる現説も久しぶりでした。
市尾駅を降りる時から、さあ大変!
駅の開設以来ではないかと思うたくさんの人が降りた。(^^ゞ
現説への最も便利な電車が、この便に限られているからなのだけど、
改札で渋滞する光景に、思わず駅員さんも写真を撮っていた。(笑)
市尾墓山古墳現説
市尾墓山古墳は、全長66m・高さ10mの前方後円墳です。
(周濠・外堤を含めると100m)
可愛いいひょっこりひょうたん島って感じの古墳です。
古墳時代の後期(6c初頭)に造られたものだとされ、
後円部の横穴式石室から内部に朱が塗られた家型石棺が発見されています。
市尾墓山古墳参照
今回の調査では、昨年の鳥型木製品についで、石見型と呼ばれる木製品が出土し、
注目を集めました。
古墳のくびれ部と造り出し部にかけての墳丘裾部や周濠・外堤基底部が調査され、
墳丘から転落またはそのままの葺石と共に、同じく多くの埴輪片も出土しています。
埴輪は、円筒形、朝顔形、形象埴輪も含まれているとの事でした。
また、周濠からは木製品が出土しました。
中でも石見型木製品が注目されました。
形象部で高さ2mを超え、幅は55cm、厚さは1~2cmであるようです。
造り出しの裾には、石見型の木製品が立っていたと思われる痕跡が検出されています。
痕跡は、長さ20cm、幅2cmの長方形をしているようです。
木製品の下部が杭状をしており、土中に差し込まれて立っていたように思われます。
石見型木製品と言うのは、盾や儀仗を表しているとされており、
邪悪なものの進入を阻止するための物だと考えられています。
(この石見型の名前にある石見は、旧国名ではなく、
磯城郡三宅町の石見遺跡から出土したものに因んでつけられた名称だそうです。)
墳丘部には土の埴輪が、裾部には木製品の埴輪が並んでいたのでしょう。
葬送儀礼や墳墓の境界を明示する目的もあったのかも知れません。
現説は、残念ながら低機能のハンドマイクで行われ、ほとんど聞き取れない状況でした。
かなりブーイングもおこり、ざわめきでますます聞き取れなくなったので、
石見型木製品が展示されている歴史研修センターに移動することにしました。
おかげで、空いた状態で木製品を見学することが出来ました。
そこから、東中谷遺跡に移動します。
途中、薩摩遺跡を通るのですけど、まったく遺跡の表示がなく残念でした。
道案内の矢印の下にでも、名前くらい書いておけば良いのになぁーとぶつぶつ。
さらに近鉄吉野線を潜った辺りに、ブルーシートを掛けた遺跡らしいものを発見。
後に、橿考研の先生に尋ねてみると、
発掘が中断している古墳かも知れないという発掘現場でした。
まだ、正式な遺跡名称はないようです。東中谷遺跡のある丘の北西斜面になるようです。
そこから、さらに歩いて東中谷遺跡に到着です。
遺跡は、見上げるような丘の上! ふぅー
東中谷遺跡現説
丘頂からは、薩摩遺跡越しに二上山が見えていました。
バイパス工事現場が薩摩遺跡。
その手前のブルーシートが、先ほどの古墳?って発掘中の遺跡です。
東中谷遺跡は、丘の上に作られた平安時代の初期の古墓群です。
火葬・土葬合わせて5基が確認されました。
2号墓は、木棺を埋める際に、木炭で周りを埋めています。
土と木炭を交互に敷き詰め、一番上を土で塚状に盛土していたようです。
副葬品として土師器の壺と銅鏡(破片)や鉄滓がありました。
銅鏡は、8世紀に作られたと推定できる「八花鏡」と呼ばれるものの破片で、
復元すると直径24cmほどの物であるようです。
破片を故意に埋葬したようで、これを破鏡と言うそうです。
破鏡の持つ意味は、私にはよく分かりませんが、
完全な鏡を埋葬する、あるいは持つことが出来ない程度の被葬者なのかも知れません。
しかし、墓は丁寧な作りをしており、
担当の先生は在地の有力者、またはこの地出身の官人を推定されていました。
副葬品と言えるのかどうか分かりませんが、鉄滓が出土しているのに首を傾げました。
滓ですから、どんな意味があるのでしょうか?
鉄を加工している人達の上役とかの仕事をしていたのでしょうか?
謎です。
他には、木棺に使われていた釘が多数展示されていました。
人が多い現説は、なかなか質問出来ないのが困った点です。
1号墓は火葬、3号墓は土壙墓、4・5号墓は木棺墓と、多彩な埋葬方法が取られています。数世代にわたるお墓ではないかとの見方も紹介されていました。
一般的な住宅跡とは思えない場所です。質問したかたのですけど、
手隙の先生が見つからず、分からないままに終わりました。(x_x)
思うに、場所柄もあるので、中世の砦とか物見の建物ではないかと想像しています。
越智氏の本拠地に近いですので、その関連かも知れないですし、
ここからは、かなりの見通しがあるからってσ(^^)の想像でしかありません。m(_ _)m
(後ほど掲示板にいただいた情報に依ると、やはり中世山城に関連するそうです。
本体の城は北西方向の丘上にあるようで、松山城というそうです♪。)
藤児媛さんありがとうございます♪
東中谷遺跡を見学後、高取町観光ボランティアさんの基地でもある夢創館を訪ねました。そこで、知ったこと。
高取町では、土佐街並み「民家の雛めぐり」と題され、
民家に眠る雛人形を展示され、1ヶ月に及ぶイベントを企画されています。
3月1日から31日まで。
土佐街並み一帯に30ヵ所を超える民家が展示に協力されるそうです。
実に企画力、行動力にとんどボランティアさん達♪
昨秋、こんなのをやってみたいと、ボランティアのお一人から聞いていたばかりでした。
素晴らしい実行力です♪ そのご努力に敬服いたしました。(∩.∩)
飛鳥三昧もそれにお応えして、宣伝をさせていただきます。
現在、夢創館にて展示されている雛飾りの一部です。
夢創館で、ひとしきりの歓談の後、桧隈を通って、飛鳥駅まで歩くことにしました。
実に我々らしいところです。(笑) そして、暫しさわさんに寄道。
楽しい週末となりました♪
ご同行いただいたのは、河内太古さん、ネコ旦那さん、笑いネコさん、泉太郎さんでした。
ありがとうございました♪
楽しく歓談させていただいた高取町観光ボランティアの会のサイト。
夢創館や雛人形展の情報は、こちらから♪ ↑
2月3日の件はこちら♪ 「飛鳥庵集会」 参加募集♪
高取町で行われる現説も久しぶりでした。
市尾駅を降りる時から、さあ大変!
駅の開設以来ではないかと思うたくさんの人が降りた。(^^ゞ
現説への最も便利な電車が、この便に限られているからなのだけど、
改札で渋滞する光景に、思わず駅員さんも写真を撮っていた。(笑)
市尾墓山古墳現説
市尾墓山古墳は、全長66m・高さ10mの前方後円墳です。
(周濠・外堤を含めると100m)
可愛いいひょっこりひょうたん島って感じの古墳です。
古墳時代の後期(6c初頭)に造られたものだとされ、
後円部の横穴式石室から内部に朱が塗られた家型石棺が発見されています。
市尾墓山古墳参照
今回の調査では、昨年の鳥型木製品についで、石見型と呼ばれる木製品が出土し、
注目を集めました。
石見型木製品と昨年出土した鳥型木製品です♪
古墳のくびれ部と造り出し部にかけての墳丘裾部や周濠・外堤基底部が調査され、
墳丘から転落またはそのままの葺石と共に、同じく多くの埴輪片も出土しています。
埴輪は、円筒形、朝顔形、形象埴輪も含まれているとの事でした。
朝顔形埴輪
また、周濠からは木製品が出土しました。
中でも石見型木製品が注目されました。
形象部で高さ2mを超え、幅は55cm、厚さは1~2cmであるようです。
出土状況
造り出しの裾には、石見型の木製品が立っていたと思われる痕跡が検出されています。
痕跡は、長さ20cm、幅2cmの長方形をしているようです。
木製品の下部が杭状をしており、土中に差し込まれて立っていたように思われます。
石見型木製品と言うのは、盾や儀仗を表しているとされており、
邪悪なものの進入を阻止するための物だと考えられています。
(この石見型の名前にある石見は、旧国名ではなく、
磯城郡三宅町の石見遺跡から出土したものに因んでつけられた名称だそうです。)
墳丘部には土の埴輪が、裾部には木製品の埴輪が並んでいたのでしょう。
葬送儀礼や墳墓の境界を明示する目的もあったのかも知れません。
現説は、残念ながら低機能のハンドマイクで行われ、ほとんど聞き取れない状況でした。
かなりブーイングもおこり、ざわめきでますます聞き取れなくなったので、
石見型木製品が展示されている歴史研修センターに移動することにしました。
おかげで、空いた状態で木製品を見学することが出来ました。
そこから、東中谷遺跡に移動します。
途中、薩摩遺跡を通るのですけど、まったく遺跡の表示がなく残念でした。
道案内の矢印の下にでも、名前くらい書いておけば良いのになぁーとぶつぶつ。
さらに近鉄吉野線を潜った辺りに、ブルーシートを掛けた遺跡らしいものを発見。
後に、橿考研の先生に尋ねてみると、
発掘が中断している古墳かも知れないという発掘現場でした。
まだ、正式な遺跡名称はないようです。東中谷遺跡のある丘の北西斜面になるようです。
そこから、さらに歩いて東中谷遺跡に到着です。
遺跡は、見上げるような丘の上! ふぅー
東中谷遺跡現説
丘頂からは、薩摩遺跡越しに二上山が見えていました。
バイパス工事現場が薩摩遺跡。
その手前のブルーシートが、先ほどの古墳?って発掘中の遺跡です。
東中谷遺跡は、丘の上に作られた平安時代の初期の古墓群です。
火葬・土葬合わせて5基が確認されました。
2号墓は、木棺を埋める際に、木炭で周りを埋めています。
土と木炭を交互に敷き詰め、一番上を土で塚状に盛土していたようです。
2号墓
副葬品として土師器の壺と銅鏡(破片)や鉄滓がありました。
銅鏡は、8世紀に作られたと推定できる「八花鏡」と呼ばれるものの破片で、
復元すると直径24cmほどの物であるようです。
2号墓副葬品
破片を故意に埋葬したようで、これを破鏡と言うそうです。
完全な鏡を埋葬する、あるいは持つことが出来ない程度の被葬者なのかも知れません。
しかし、墓は丁寧な作りをしており、
担当の先生は在地の有力者、またはこの地出身の官人を推定されていました。
副葬品と言えるのかどうか分かりませんが、鉄滓が出土しているのに首を傾げました。
滓ですから、どんな意味があるのでしょうか?
鉄を加工している人達の上役とかの仕事をしていたのでしょうか?
謎です。
他には、木棺に使われていた釘が多数展示されていました。
人が多い現説は、なかなか質問出来ないのが困った点です。
検出された古墓
1号墓は火葬、3号墓は土壙墓、4・5号墓は木棺墓と、多彩な埋葬方法が取られています。数世代にわたるお墓ではないかとの見方も紹介されていました。
丘の一番高い所にあった柱穴現説では、説明がなかったのですけど、丘頂上に柱穴がありました。
一般的な住宅跡とは思えない場所です。質問したかたのですけど、
手隙の先生が見つからず、分からないままに終わりました。(x_x)
思うに、場所柄もあるので、中世の砦とか物見の建物ではないかと想像しています。
越智氏の本拠地に近いですので、その関連かも知れないですし、
ここからは、かなりの見通しがあるからってσ(^^)の想像でしかありません。m(_ _)m
(後ほど掲示板にいただいた情報に依ると、やはり中世山城に関連するそうです。
本体の城は北西方向の丘上にあるようで、松山城というそうです♪。)
藤児媛さんありがとうございます♪
東中谷遺跡を見学後、高取町観光ボランティアさんの基地でもある夢創館を訪ねました。そこで、知ったこと。
高取町では、土佐街並み「民家の雛めぐり」と題され、
民家に眠る雛人形を展示され、1ヶ月に及ぶイベントを企画されています。
3月1日から31日まで。
土佐街並み一帯に30ヵ所を超える民家が展示に協力されるそうです。
実に企画力、行動力にとんどボランティアさん達♪
昨秋、こんなのをやってみたいと、ボランティアのお一人から聞いていたばかりでした。
素晴らしい実行力です♪ そのご努力に敬服いたしました。(∩.∩)
飛鳥三昧もそれにお応えして、宣伝をさせていただきます。
現在、夢創館にて展示されている雛飾りの一部です。
夢創館で、ひとしきりの歓談の後、桧隈を通って、飛鳥駅まで歩くことにしました。
実に我々らしいところです。(笑) そして、暫しさわさんに寄道。
楽しい週末となりました♪
ご同行いただいたのは、河内太古さん、ネコ旦那さん、笑いネコさん、泉太郎さんでした。
ありがとうございました♪
楽しく歓談させていただいた高取町観光ボランティアの会のサイト。
夢創館や雛人形展の情報は、こちらから♪ ↑
2月3日の件はこちら♪ 「飛鳥庵集会」 参加募集♪
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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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