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風の書 / 日記と雑記 両槻会情報 飛鳥情報
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昨日は菅公所縁の宝物を拝見した後、結構な暑気払いの宴となりました♪
まったりと楽しみましたですよ♪ (^^)

この異常に暑かった夏も、来週からは一段落との予報。
そうであってくれたら良いのですが・・・、予報を信じる気にはなれないですね。
20070803083609.JPG
写真は話題と全く関係なく、お掃除中のヒマちゃん♪ (^^ゞ


風鼓が夏バテです。無理ありません。σ(^^)も夏バテ気味ですからね。
お布団の上で熱中症で亡くなるお年よりも出るような夏でしたから、
充分に注意しているんですけど、高齢者にはきつい夏のようです。

今日は予定を全キャンセルして、家事専念です。

sP1230339.jpg
買い物ついでに本薬師寺に行ってきました。 滞在時間10分ほどです。(^^ゞ
カメラマンいっぱいでした! ウォーキンググループも! ご苦労様です。m(__)m
咲き具合はまだまだですね。 西と東に満開状態の田んぼが一枚づつありましたけど、
南側に広いところは、まだ水面がたくさんありました。 これからですね。

sP1230384.jpg
で、いつものスーパーに向かう途中に発掘現場を発見♪
大極殿のすぐ真南です。 朝廷を掘っているわけで、石敷きの確認なのでしょうか?
はたまた下層遺跡の確認? 大きな範囲で掘っていました。
シートで内容は全く分からないですけど、注目していたいと思います。

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あまり休養が出来なかった盆休みと夏休み。(^^ゞ
極暑の中で、バタバタ過ごしてしまった感じです。
一本更新したかったんだけど、その類の気力は全く湧くどころか・・・。(>_<)

明日は、ちょいとお出かけ♪ 皆さんと楽しんできます♪

日曜日は、久しぶりに飛鳥に行こうかと。(^^ゞ 
写真くらい更新しないと・・・。 ネタあるかな? ホテイアオイか?
まだちらほら咲きみたいですけど。
http://www.city.kashihara.nara.jp/hoteiaoi/hoteiaoi.html


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酒船石遺跡は、両槻宮であるとかその一部であるとする説が、近年盛んに言われてきました。
亀形石造物や酒船石の存在など、いかにもそれらしい謎の石造物がある事も一層の拍車をかけたように思います。

酒舟丘陵を標高130mで2m以上の高さを持って取り囲む切石の壁。
丘の西側は、4段の石列が囲み、見上げるとまるで階段ピラピッドの様に見えたのではないかと推測されます。
地山を削り取って版築を重ね、改めて飛鳥石の基礎を並べた上に切り石を積み重ねるといった半人工の丘と言える大工事をなしています。
石を運ぶ運河を掘るために3万人が動員され、この丘を築くために7万人が必要とされたと書かれています。全長700m以上になるという石垣を考えると、それも肯ける規模となります。

亀形石造物は、現状では竹薮の下に明るい広場のようになっていますが、施設のある谷底のような窪地に立つと、前面は切り立った石の丘に見えていたのではないかと思われます。
現状では、万葉文化館建設のために切り開かれていますが、当時は丘が両側から包み込むように迫っていたようで、閉鎖的な密室のような空間であったように思われます。 それはきっと特別な人のみが立ち入りを許されたきわめて特殊な施設ではなかったかと想像されます。

亀形石造物を含めたこの一連の導水施設が何であるのかは、現状ではまだ確定的な説明はなされてはいません。ただ、水を使った何らかの祭祀に関連することは間違いないのではと思います。
湧水施設からの水を舟形の水槽にいったん溜めて、その上水を亀形石造物に流している点など、大量の水ではなく、綺麗な少量の水を必要にしていたようにも見えます。

酒舟丘陵との関連は明確ではありませんが、その丘陵上にある施設に向かう導入部分であるのではと・・・。たとえば、祭祀を執り行う祭壇に向かう手水所なのではと妄想が膨らみます。


書紀の記事を読む限り、この酒船石遺跡は「宮の東の山」ではあるのですが、両槻宮の記事とは別のものとして書かれているように思えます。

日本書紀 斉明天皇2年(656年)条
『 田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以ってす。 (田身は山の名なり。此をば大務と云う。) また、嶺の上の両つの槻の樹の辺りに、観を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮と日ふ。
時に興事を好む。すなわち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以って、石上山の石を載みて、流れの順に控引き、宮の東の山の石を塁ねて垣とす。時の人謗りて曰く、「狂心の渠。功夫を損し費やすこと、三万余。垣を造る功夫を費やし損すること、七万余。宮材爛れ、山椒埋もれたり」といふ。
又、謗りて曰く「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」といふ。 』

祭祀の場として造られた酒船石遺跡。別の目的で建設された両槻宮。もう少し妄想を展開してみたいと思います。
sakahune.gif
               酒船石遺跡復元モデル 
飛鳥資料館ロビー模型  ( 奈文研の掲載許可取得済み )

若干加工してあります。m(__)m

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多武峰の最高峰御破裂山の山頂は、藤原鎌足の墓とされる円墳様の塚があります。
鎌足の死後の天武7年(678年)、長男の定恵が唐からの帰国後に、
墓を摂津安威(阿武山古墳)からこの地に移したとされています。
鎌足公御廟所として、お参りする方も時折見かけます。
この円墳の北側は見通しが良く、万葉展望台と書かれてあります。
特に奈良盆地の南端から北側への展望が優れています♪

で、両槻宮は斉明天皇の2年に造られ始め、大宝2年までは少なくとも存在したのですから、ここに両槻宮が存在していたら、鎌足の墓を作れるはずは無いわけです。
両槻宮は、御破裂山々頂には無かったと言えます。


念誦掘・紫蓋寺跡は、御破裂山の8~9合目西斜面にあります。(明日香村方向)
多武峰寺の奥の院とも言われています。
西国名所図会という書物にはこの紫蓋寺が書かれており、
嘉永6年(1853年)までは存在していたことが分かります。
おそらくは、廃仏毀釈により廃されたように思います。

ある資料(談山神社社家の文書)によると、増賀上人の霊堂一宇、坊中六宇、往古十三坊、と書かれており、現在も所々に石垣が散見されます。

念誦掘は、その増賀上人が入滅されたところと言われ、石を積み上げた円墳状のお墓になっています。念誦掘は根槻とも書かれるようで、そこから両槻宮との関連も古くから指摘されてきたようです。山中に残された石垣も両槻宮を取り巻く垣と解釈する方もいるようですが、これは誤りでしょう。どう見ても古代のものとはσ(^^)には見えないのですが・・・。

念誦掘付近は、御破裂山から張り出した尾根の西南の斜面にあり、
飛鳥真神原方向の視界はありません。
たとえこの尾根のピークに両槻宮が在ったとしても、西に尾根が続くため明日香村方向の視界は、ほとんど無いと思われます。
この地に両槻宮を造る意味付けを想定できず、σ(^^)はここに両槻宮が置かれたとは思われません。
「観」と書かれた高楼(高殿)を造るということは、「見下ろす・見上げられる」からこそ意味のあるものだと思うからです。

まだ続くかもしれない。(笑)

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夕方からの飲み会なので、カメラを持たずに出かけた。(>_<)
こんなに夕景が綺麗だと知っていたら・・・・。 ガクッ。

めったに休みが一緒にならないので、こんな機会にって誘ってくれたのは、さわ夫婦♪
新年会以来かな? (^^)
で、最終まで夜風に吹かれながら気持ちよ~く飲んだのでした♪

で、ここで終われば健全ですが、そんなことになるはずも無く・・・。(^^ゞ
魚が売りのお店にレッツラゴー♪ ついでに花林にも行ったりして・・・・(^^)
帰り着いたのは丑三つ時。 (@_@)

でで、一郎も風鼓もご機嫌斜め! (^^ゞ しばらくおとなしくしよーっと。


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持統7年(693年)9月5日 多武嶺に幸す。
持統10年(696年)3月3日 二槻宮に幸す。

両槻宮に関する造営記事以外の書紀の記述は、この二ヶ所だけです。
続日本紀には、大宝2年(702年)3月17日条に、大倭国をして二槻離宮を繕治はしむ。 とあります。

持統7年9月5日の記事には、翌日に宮(藤原京)に帰ったと書かれており、
持統天皇が両槻宮に宿泊したことが伺えます。
(多武嶺=両槻宮とするならば)
つまり、それだけの施設があったということになります。

(実は、この4日前の9月1日に、日食があったことが記されています。
そのこととは関係ないのでしょうね。。 ちょっと目に留まってしまいました。(^^ゞ)

念誦掘の付近なら、かなりの建物を建てる土地があるように思います。
藤本山の頂上付近は、少しばかり平らな土地があるのですが、
天皇が宿泊する建物を建てるには狭すぎるかもしれません。

しかし、見通しの悪い念誦掘付近に「観」を建てることは無いでしょう。
書紀は「嶺の上の両つきの樹の辺りに、観を起つ。」と記述しています。
「観」とは、道教で言うところの道士の住まいするところ。道宮とも言われるのですが、
単に高殿・高楼であるのかもしれません。
高い建物を建てる意味は、見下ろすことか、聳えている姿を見せることなのだと思えるのですけど・・。 天に近づくという意味もあるかも知れませんけどね。(^^ゞ
そういう意味での候補地としては、念誦掘付近は藤本山よりは劣るように思えます。

斉明4年(658年)11月3日条
留守官蘇我赤兄臣、有馬皇子に語りて日はく、「天皇の治らす政事、三つの失有り。大きに倉庫を起てて、民財を積み聚むること、一つ。長く渠水を穿りて、公粮を損し費すこと、二つ。舟に石を載みて、運び積みて丘にすること、三つ。という。」
両槻宮や宮の東の山に関して、よく関連付けて書かれる日本書紀の記述です。

宮の東の山と両槻宮が同じものであるなら、この民の謗りて曰くという文章は両槻宮造営に関する不満であるわけですけど、違うものだとすれば、大土木工事への不満の対象にならなかったとうことで、これは両槻宮の性格を考える上で、重要なことであるのかも知れないと思ったりします。

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と、うだうだと両槻宮のことを思っていました。 
今日は、平穏だ♪ 近所からは物音一つ聞こえてきません。(^^v
静か~な田舎の一日です♪  

さて、ネオンを求めてちょっくら出かける準備をしましょうか。
本日は、飲み放題食い放題の宣伝に釣られて某百貨店の屋上ビアガーデン♪ (笑)
ビアガーデンなんて、もう何十年ぶりだろう・・・・。(^^ゞ 楽しみ♪ 


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日本書紀 斉明2年(656年) の条

田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以ってす。 (田身は山の名なり。此をば大務と云う。) また、嶺の上の両つの槻の樹の辺りに、観を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮と日ふ。

両槻宮造営に係わる日本書紀の記述はこれだけです。
これだけの文章から、両槻宮を探し出そうと言うのですから、
名探偵が束になっても解決できそうもありませんね。(^^ゞ

ここで一番問題になるのは、田身嶺が何処を指しているのかということです。
田身嶺が独立したピークを指しているのなら、現在の多武峰山頂(御破裂山)を表しているように思われます。しかし、多武峰は名前の通り、明日香村や桜井市など大和盆地にたくさんの尾根を伸ばしています。その山容の総称を田身嶺と表現していたとなると、両槻宮の候補地は、たくさんあるようにも思えてきます。

それらしい場所や伝承地を上げれば、次のようなところが考えられます。
  • 御破裂山頂
  • 念誦崛(ねずき = 根槻)
  • 藤本山
  • 酒船石遺跡
このうち、酒船石遺跡が両槻宮ではないかと、近年の最注目候補地になっているようです。
しかし、日本書紀の記述も「宮の東の山」と両槻宮とは、別の文章で書かれており、
酒船石遺跡と両槻宮は、別のものであると考えるのが自然なように思われます。
ゆっくり推理をめぐらして行きたいと思います。

さてさて、皆さんはどのように考えられるでしょうか。

sP1230309.jpg
最近、うどん屋さんのブログ化してます。。。(^^ゞ


お盆の風人
明日は、休養日♪  風鼓とのんびりすごします。 過ごせますよーに。(-人-)
夕方からは、ちと飲み会です♪ (^^v

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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使 
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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