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すこ~し、ほんのすこ~~し!酒船石遺跡が見えてきた感じです。
頭の中でイメージが浮かぶようになったので、結構楽しくなってきました♪

酒船石遺跡面白いです♪
亀形石造物や酒船石ばかりが注目されますけど、
それらを含めた酒舟丘陵一帯が面白いのです♪ 
調べ始める以前とは、かなりイメージが変わりました♪ (^^)

もう少し妄想の中に見える酒船石遺跡の精度を上げたいなっ♪

ss070804148.jpg
標高130m付近に、丘を取り囲むように積み重ねられた砂岩のブロック。
丘陵西では15段(2.25m)まで積まれた石垣が、総延長700mにも及ぶと考察されている。
天理市付近で産する砂岩をわざわざ運ぶ。
香具山から南は、3万人を費やして掘ったという狂心渠の水運を使ったのだろう。
その砂岩をブロックに加工し、飛鳥石で出来た基礎石の上に積み重ねる。
7万人を超える人々が工事に費やされたという。

地山を削り取って、改めて版築土を重ねて造った人工の丘。
大嘗宮? 水の祭祀? 両槻宮? 道教のあるいは神仙思想の祭祀の場?

おそらく斉明天皇の時代に作られたのだろうが、何を造ろうとしたのだろうか・・。
当分は、これで楽しめる♪ (笑)

s070804146.jpg


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暑かったですねー。(>_<)
で、局地的なスコール! 夕立って感じじゃないですね。
室内から見ていましたけど、滝みたいでした。
それでも被害が無くて、涼しくなってくれたら良いんですけど、それも無し!

で、この時期になると気になるのが本薬師寺のホテイアオイ。
来週くらいかな?って思っている方も多いのでは? 今年は遅いかもですよ。
こんなページをご紹介しておきます。
ホテイアオイ開花情報

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けど、初期目的は何とか達成しました♪
地元の方の話も聞けて、まっこと探検隊としては充分な成果でした♪

が、局地的豪雨のおかげでえらい目にあいました。
パンツまで濡れました。(>_<)

sP1230069.jpg

傘なんて有っても無くても同じです。 これだけ降れば関係無し。
ぐっちょぐっちょです。(T_T)

後で知ったのですけど、この時大雨・洪水・雷警報が出てたようです。
雷は遠くで鳴っていて、飛鳥を歩いている分には怖さは無かったですけどね。

まっ、酒船石遺跡を改めて歩けて良かったですけど、
これだけ降らんでも・・・! (T_T)

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バタバタした一週間もようやく終了。
なんだか何をしていたのか分からんような・・けど忙しい一週間だった。(>_<)
って実は、まだ終わってないのだけど。(^^ゞ

今週は、「酒船石遺跡発掘調査報告書」ってのをずっと持ち歩いていた。
けど、一週間で読めたのは僅かに40ページ。(T_T) 
なんちゅう読書力の無さ! まっ、時間が無かったんだけどさ。(^^ゞ
今晩を入れて50ページ・・・。 情けな。。 反省!

今の興味は、「両槻宮」に大きく傾いています。
何処にあったのかな~?の候補地の一つが酒船石遺跡。
っちゅうことで、上の本を読んでいるわけであります。
気持ちは、藤本山に傾いているのですけどね。(^^ゞ 


で、週末風人♪

土曜日
昼前から出発。 
案山子ロードの大案山子を撮ったら、酒船石遺跡の探査をしようと思う♪
目的を持って、改めて酒船石遺跡全体を見たいな。(^^)
それで、興味の方向での写真を撮ってきたいな。
時間と体力があれば八釣へも♪

で、飛鳥庵で休憩。 夕刻はいつもの場所へ♪

日曜日
家事家事家事。(>_<)  休養も出来れば良いな。読書も。


さて休憩終わり。 まだ帰れない。(T_T)

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03051757.jpg

昨夜から今朝にかけて、下つ道発見の新聞記事には注目していたのですが、
昨夜とあまり変わるところも無い記事ばかりでした。(^^ゞ
発掘現場の写真を見ていると小さな調査区(計約140平方メートル)なので、
そのようなものなのかなと・・。 (T_T)

で、発掘調査の場所ですけど、上の写真の近くなんじゃないかと。(^^)
写真は、03年に藤原京から平城京まで「下つ道」を歩いた時のものです。
平城宮が近づいて、最初に復元朱雀門の屋根が見えたところです。
写真の南側を走る国道308号の拡幅工事だとか。

飛鳥三昧 「 古の道を訪ねて -飛鳥へ続く道- 」   「 下つ道

検出された側溝跡は、幅約2メートル、深さ約1メートルで、
底部に直径約13センチの須恵器の坏蓋1点が発見されたようです。
その形状から、7世紀初めと判断され、発見された溝の時代が特定されたようです。

一個の土器から時代を断定するのは、難しいかも知れないとも思うのですけど、
須恵器の杯の蓋を何十年も使ってから投棄するかなって考えると、
やはり推定される年代に近いものだと考えるのも当然なのかも。

平城京の時代には、当然朱雀大路として改修されるわけで、朱雀大路は幅70m。
下つ道は、約23m。 
朱雀大路から南の基点とされる見瀬丸山古墳までは、おおよそ23キロ。
ただし、下つ道の北の基点は朱雀門であるはずはなく、
何処まで作られていたかはわかりません。 
奈良北部の丘陵を越えて木津川に向かっていたのか・・・。 あるいはもっと・・。
まっ、直線であるのは丘陵にかかる手前までなんでしょうけど。

miti.gif
南北3本の古道は、直線道です。 それも真南北の。
そこに、疑問が出てきます。
推古天皇の時代の地割は、南北から西に振れる場合が多く有ります。
馬子邸といわれる島庄遺跡の7世紀初めの建物群や法隆寺若草伽藍もそうです。
上の筋違道と書いている道路の傾斜角度がそれに当たります。
聖徳太子が斑鳩から飛鳥へ通う道として太子道とも呼ばれています。

自分達の住まいの方位と違った道路を造るだろうか? 

でも、大きな大和盆地全体を含めた土地利用計画の端緒だったのかもしれないですね。
幹線道路に従った開発を進めようとしたのかもなどと思います。
その証拠に、飛鳥の北部になる小墾田を埋め立てて宮を置いています。
その部分での山田道は直線の東西道なので、
必然的に小墾田宮は正方向を向いているはず。

推古・馬子・太子の三人の誰が主導権を持っていたのかは分かりません。
見瀬丸山古墳が稲目の墓だとすると、蘇我馬子主導の計画だったのかも。
また、欽明陵だとすると、推古・太子の主導であったのかも知れません。
あるいは、三人の合意の下であったのかも知れませんね。 
この三人がもめていたなどということは、σ(^^)なんぞは無いと思うのですが。

でっかい道を造る必要が生まれていたことと、
それが出来る権力構造が出来てきていたってことでしょうね。
中央集権国家、難しく言うとそういう事なのかもしれません。

もう少し、分かってくると良いのだけど。。。 楽しみにしたいです♪

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推古時代の下つ道が見つかったようです♪ (^^)
側溝ですけどね。(^^ゞ  7世紀初めの土器が出たそうです♪ やった~♪
場所は、奈良市三条大路。 朱雀門のすぐ南ですね。

横大路や山田道だけじゃなく、古代の幹線道路は、
推古朝に出来ていたと思っていたσ(^^) 
サイトにそう書いてきたので、とりあえず下つ道が検出されてほっとしてます♪

気分良く寝ましょう。(笑) 詳細報道を待ちたいです。(^^)


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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使 
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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