飛鳥資料館で、冬期企画展が開催されます♪
飛鳥資料館公式サイト参照
内容は
ってぇ~、ことで、大注目の講演会です♪ 皆さん、予定空けてくださ~い。(^^)
飛鳥資料館公式サイト参照
内容は
- 発掘調査速報展 「飛鳥の考古学2006」ってことで、 明日香村の一年の発掘成果を見れるようです♪
- 展示期間 平成19年1月16日(火) ~ 2月25日(日) 月曜休館
- 特別講演会
- 日 時 平成19年2月3日(土) 午後2時から
- 「飛鳥の考古学2006-発掘された蘇我氏の飛鳥-」
- 明日香村教育委員会 相原嘉之氏
ってぇ~、ことで、大注目の講演会です♪ 皆さん、予定空けてくださ~い。(^^)
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風の書・平城京現説情報でお知らせしていた遺構のニュースが出ました。
やはり平城宮東院地区でした。
中枢施設を区画する塀跡や建物跡が検出されたようです。
東院というのは、聖武天皇が即位前に住んでいたとされ、
奈良時代後半の称徳天皇の玉殿や光仁天皇の楊梅宮が造られた区画だとされます。
東院の造営当初は西半分も一体的に利用していたようですが、
後半は東西を二分する掘っ立て柱塀が設けられて、
東院全体を四等分した可能性が強いのではとしています。
このことによって、中枢施設は未調査の東側に眠る可能性が強まったと言えるのだそうです。
では、中枢施設が発掘された時に現説参加しますか。
現地説明会は、明日9日午後1時半から。少雨決行だそうです。
やはり平城宮東院地区でした。
中枢施設を区画する塀跡や建物跡が検出されたようです。
東院というのは、聖武天皇が即位前に住んでいたとされ、
奈良時代後半の称徳天皇の玉殿や光仁天皇の楊梅宮が造られた区画だとされます。
東院の造営当初は西半分も一体的に利用していたようですが、
後半は東西を二分する掘っ立て柱塀が設けられて、
東院全体を四等分した可能性が強いのではとしています。
このことによって、中枢施設は未調査の東側に眠る可能性が強まったと言えるのだそうです。
現地説明会は、明日9日午後1時半から。少雨決行だそうです。
未確認情報ですけど、甘樫丘東麓遺跡で建物の遺構が検出されているらしいです。
まっ、前回の近くを(続き)を調査しているので、出て当然なんですけど。(^^ゞ
かなり深く掘っているとかって話も聞きました。
年内に現説まで行くんでしょうかね?
で、突然に真神原に建ったプレハブ小屋。
飛鳥庵のライバルかって一瞬思ったりなんぞして。(笑)
全くの推測ですけど、
実はこれは橿考研の発掘に使う小屋のようです。
明日香村発掘調査報告会の時に、
林部先生が言ってはった次回発掘地ってのがここのようです。
飛鳥京(飛鳥浄御原宮)の外郭北限の調査のようです。
ここまで北に来るのかな? なんて思いながら見ていました。
調査が楽しみです♪
まっ、前回の近くを(続き)を調査しているので、出て当然なんですけど。(^^ゞ
かなり深く掘っているとかって話も聞きました。
年内に現説まで行くんでしょうかね?
で、突然に真神原に建ったプレハブ小屋。
飛鳥庵のライバルかって一瞬思ったりなんぞして。(笑)
全くの推測ですけど、
実はこれは橿考研の発掘に使う小屋のようです。
明日香村発掘調査報告会の時に、
林部先生が言ってはった次回発掘地ってのがここのようです。
飛鳥京(飛鳥浄御原宮)の外郭北限の調査のようです。
ここまで北に来るのかな? なんて思いながら見ていました。
調査が楽しみです♪
明日の報告会で予定されている「真弓遺跡群の調査」に関するニュースが報道されています。
■明日香村発掘調査報告会 2006
・参加無料 先着順300名
・平成18年11月25日午後1時から(受付12時30分より)
・明日香村中央公民館・大ホール
明日香村大字真弓周辺にあるの6世紀後半ごろの方墳2基で、
スズミ1号墳( 一辺10m)、2号墳(一辺7m)と名づけられ、
周辺を真弓遺跡群と名づけられたようです。
1号墳からは、 炊飯にまつわる道具をかたどったミニチュア土器が出土したそうです。
このような副葬品の出土は、渡来系の古墳の特徴ということになるようです。
東漢氏に属する一族の墳墓なのでしょうか。
横穴式石室内に、竈(かまど)と釜、蒸し器である「甑(こしき)」を模した土器が置かれていたようで、石室内での祭祀の可能性もあるとか。この被葬者は、生前このような土器を組み合わせて、ご飯を炊いていたのでしょうか。
発掘されたそのミニチュアは、いずれも10cm未満の物です。
1号墳は、2棺が埋葬されていたそうです。
2号墳は、石室が無くて、墳丘に直接に木棺を納める埋葬方法を採っているそうです。
中からは銅管に金を張って仕上げた円形の耳飾り と上あごの前歯1本が出土しています。
鑑定では、被葬者は20歳代前半の女性と推定されており、
単独で埋葬されていることなどから、一族の中でも特別な存在だった 可能性があるそうです。
特別な存在と言うと、巫女のような者を指しているのでしょうか?
真弓古墳群ミスズ2号墳被葬者様。(笑)
出土した歯から復顔された顔の特徴モデル。
これがそうか? ってことではありません。(笑)
こちらは、串カツのミニチュア♪ ドールハウスのものでしょうか?
串之家さわさんで発見しました。(^^)
それはともかく、明日は楽しみです♪
講演が終わった後、橘寺へ寄って飛鳥庵へ向かう予定です。
σ(^^)の知人が、一昨日結婚されました♪
祝福の気持ちを伝えたいと思っています。o(∩.∩)o
■明日香村発掘調査報告会 2006
・参加無料 先着順300名
・平成18年11月25日午後1時から(受付12時30分より)
・明日香村中央公民館・大ホール
明日香村大字真弓周辺にあるの6世紀後半ごろの方墳2基で、
スズミ1号墳( 一辺10m)、2号墳(一辺7m)と名づけられ、
周辺を真弓遺跡群と名づけられたようです。
1号墳からは、 炊飯にまつわる道具をかたどったミニチュア土器が出土したそうです。
このような副葬品の出土は、渡来系の古墳の特徴ということになるようです。
東漢氏に属する一族の墳墓なのでしょうか。
横穴式石室内に、竈(かまど)と釜、蒸し器である「甑(こしき)」を模した土器が置かれていたようで、石室内での祭祀の可能性もあるとか。この被葬者は、生前このような土器を組み合わせて、ご飯を炊いていたのでしょうか。
発掘されたそのミニチュアは、いずれも10cm未満の物です。
1号墳は、2棺が埋葬されていたそうです。
2号墳は、石室が無くて、墳丘に直接に木棺を納める埋葬方法を採っているそうです。
中からは銅管に金を張って仕上げた円形の耳飾り と上あごの前歯1本が出土しています。
鑑定では、被葬者は20歳代前半の女性と推定されており、
単独で埋葬されていることなどから、一族の中でも特別な存在だった 可能性があるそうです。
特別な存在と言うと、巫女のような者を指しているのでしょうか?
真弓古墳群ミスズ2号墳被葬者様。(笑)
出土した歯から復顔された顔の特徴モデル。
これがそうか? ってことではありません。(笑)
こちらは、串カツのミニチュア♪ ドールハウスのものでしょうか?
串之家さわさんで発見しました。(^^)
それはともかく、明日は楽しみです♪
講演が終わった後、橘寺へ寄って飛鳥庵へ向かう予定です。
σ(^^)の知人が、一昨日結婚されました♪
祝福の気持ちを伝えたいと思っています。o(∩.∩)o
竹田遺跡見てきました♪
下に書いた竹田遺跡報道の疑問点は解決しました。(^^)
全部で建物遺構は、11棟検出されています。
その内、1棟は平安時代の建物でした。
ですから11棟という表記も間違いではなかったわけです。
で、大きく分けて3つの建物グループがあり、
微妙に時代が違う可能性があるのだそうです。
で、その内の二つのグループの6棟は、間違いなく7世紀後半の建物。
残りが、それよりも若干新しい時代の物だと考えられるようです。
このあたりに報道された記事の書き方が変わってしまっている原因があるようです。
建物1 一辺1mちかい柱堀形を持つ7世紀後半の建物
ですから、間違いなく7世紀後半とされるのは6棟と言うことになります。
出土遺物では、土器などがたくさん出ているようです。
食器などが多かったようですが、未判読の墨書土器もあったそうです。
読めれば、この邸宅の持ち主に迫れるかも知れないですね。
現在出土しているのは、建物群の中心ではないようで、
今後に楽しみが残ります♪
下に書いた竹田遺跡報道の疑問点は解決しました。(^^)
全部で建物遺構は、11棟検出されています。
その内、1棟は平安時代の建物でした。
ですから11棟という表記も間違いではなかったわけです。
で、大きく分けて3つの建物グループがあり、
微妙に時代が違う可能性があるのだそうです。
で、その内の二つのグループの6棟は、間違いなく7世紀後半の建物。
残りが、それよりも若干新しい時代の物だと考えられるようです。
このあたりに報道された記事の書き方が変わってしまっている原因があるようです。
建物1 一辺1mちかい柱堀形を持つ7世紀後半の建物
ですから、間違いなく7世紀後半とされるのは6棟と言うことになります。
建物9の柱残存部 7世紀後半より新しい建物と思われる。
出土遺物では、土器などがたくさん出ているようです。
食器などが多かったようですが、未判読の墨書土器もあったそうです。
読めれば、この邸宅の持ち主に迫れるかも知れないですね。
現在出土しているのは、建物群の中心ではないようで、
今後に楽しみが残ります♪
竹田遺跡現地見学会♪
飛鳥時代の高位・高官の邸宅跡の発見♪
現地見学会:
平成18年11月23日(祝) 午前10時~午後3時 (説明はありません。)
明日香村公式HP
って、言うことです。
2007年の発掘成果については、こちら♪
発見されたのは、7世紀後半ごろに建てられた10棟の建物跡。
(・・と報道もあったのですけど、7世紀後半の建物は6棟のようです。
全体としては10棟との報道と11棟という報道があります。)
柱の据え付け穴が約1mと大きいため、高位・高官の邸宅跡とみられるようです。
これらの建物がどのように関連して、あるいは別の物として建っていたのか、
その辺を現地や資料図面でしっかり見たいと思っています。
飛鳥真神原の東にある小原・八釣の地は、
高級住宅街であったのかも知れません。
この地は、東の多武峰に続く緩やかな丘陵をなしています。
真神原は、宮殿やお寺がその大部分を占めていますから、
実際に人が住む場所は、その周辺部と言う事になります。
北は、沼沢地や湿地が多かったかも知れませんので、
やはり東の丘陵部は、人が住みよい場所になると思います。
先日から書いていた謎の歌群(笑))は、そのことを示しているようでもあります。
邸宅の持ち主の名前は、今のところ特定は出来ないようですけれど、
妄想が広がるニュースではあります♪
その住まいの持ち主の一人に、新田部皇子を上げることが出来ます。
万葉集には、下にも書いた人麻呂が新田部皇子に捧げた歌があります。
矢釣山 木立も見えず 降り乱る 雪に騒きて 参らくよしも
人麻呂らしいおべっかたっぷりの歌です。(^^ゞ
新田部皇子は、天武天皇と藤原鎌足の娘五百重娘の間に出来た子供です。
この五百重娘は、大原大刀自とも呼ばれるように、
明日香村小原(大原)に住まいしていました。
それは、
我が里に 大雪降れり 大原の 古りしにし里に 降らまくは後
我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
天武天皇との歌のやり取りで伺うことが出来ます。
小原と八釣は隣接する地域で、発掘現場と大原神社とは直線で約300mしか離れていません。この辺りが、藤原氏と所縁のある地であることなどからも、
(小原には、鎌足生誕の地との伝承もあり、大伴夫人の墓や産湯の井戸と言われる物もあります。) 新田部皇子が住んでいた邸宅跡だと考えても説得力を伴う妄想と言うことが出来ます。
新田部皇子は、天武天皇の第10子で、飛鳥時代の末期に誕生したのではないかと思います。
特に目だった活躍は無く、首皇太子(のちの聖武天皇)の補佐役に任命されたり、長屋王の変の時に藤原方として、王を尋問し自害に追い込んだりしています。
皇子は、母の影響もあるのか飛鳥に住まいしていた時から、
藤原氏との関係を深く持っていたのでしょう。
あっ、五百重娘は、後に不比等との間に藤原4兄弟の一人「麻呂」を生しています。新田部皇子とは、異父兄弟と言えます。
そのことがより藤原氏寄りにすることになったのかもしれませんね。
もう一つおまけを書けば、新田部皇子の平城京での住まいが、後に唐招提寺となります。
そんなことを思いながら、現地見学会に参加するのは楽しいことではないでしょうか♪
飛鳥時代の高位・高官の邸宅跡の発見♪
現地見学会:
平成18年11月23日(祝) 午前10時~午後3時 (説明はありません。)
明日香村公式HP
って、言うことです。
2007年の発掘成果については、こちら♪
発見されたのは、7世紀後半ごろに建てられた10棟の建物跡。
(・・と報道もあったのですけど、7世紀後半の建物は6棟のようです。
全体としては10棟との報道と11棟という報道があります。)
柱の据え付け穴が約1mと大きいため、高位・高官の邸宅跡とみられるようです。
これらの建物がどのように関連して、あるいは別の物として建っていたのか、
その辺を現地や資料図面でしっかり見たいと思っています。
飛鳥真神原の東にある小原・八釣の地は、
高級住宅街であったのかも知れません。
この地は、東の多武峰に続く緩やかな丘陵をなしています。
真神原は、宮殿やお寺がその大部分を占めていますから、
実際に人が住む場所は、その周辺部と言う事になります。
北は、沼沢地や湿地が多かったかも知れませんので、
やはり東の丘陵部は、人が住みよい場所になると思います。
先日から書いていた謎の歌群(笑))は、そのことを示しているようでもあります。
邸宅の持ち主の名前は、今のところ特定は出来ないようですけれど、
妄想が広がるニュースではあります♪
その住まいの持ち主の一人に、新田部皇子を上げることが出来ます。
万葉集には、下にも書いた人麻呂が新田部皇子に捧げた歌があります。
矢釣山 木立も見えず 降り乱る 雪に騒きて 参らくよしも
人麻呂らしいおべっかたっぷりの歌です。(^^ゞ
新田部皇子は、天武天皇と藤原鎌足の娘五百重娘の間に出来た子供です。
この五百重娘は、大原大刀自とも呼ばれるように、
明日香村小原(大原)に住まいしていました。
それは、
我が里に 大雪降れり 大原の 古りしにし里に 降らまくは後
我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
天武天皇との歌のやり取りで伺うことが出来ます。
小原と八釣は隣接する地域で、発掘現場と大原神社とは直線で約300mしか離れていません。この辺りが、藤原氏と所縁のある地であることなどからも、
(小原には、鎌足生誕の地との伝承もあり、大伴夫人の墓や産湯の井戸と言われる物もあります。) 新田部皇子が住んでいた邸宅跡だと考えても説得力を伴う妄想と言うことが出来ます。
新田部皇子は、天武天皇の第10子で、飛鳥時代の末期に誕生したのではないかと思います。
特に目だった活躍は無く、首皇太子(のちの聖武天皇)の補佐役に任命されたり、長屋王の変の時に藤原方として、王を尋問し自害に追い込んだりしています。
皇子は、母の影響もあるのか飛鳥に住まいしていた時から、
藤原氏との関係を深く持っていたのでしょう。
あっ、五百重娘は、後に不比等との間に藤原4兄弟の一人「麻呂」を生しています。新田部皇子とは、異父兄弟と言えます。
そのことがより藤原氏寄りにすることになったのかもしれませんね。
もう一つおまけを書けば、新田部皇子の平城京での住まいが、後に唐招提寺となります。
そんなことを思いながら、現地見学会に参加するのは楽しいことではないでしょうか♪
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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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