風の書で、飛鳥京(飛鳥浄御原宮)外郭北限遺跡と呼んでいた遺跡の成果が、
マスコミで発表され始めました♪
橿考研サイトでも、現説の案内が出ています。橿考研
北限遺跡とは書かれませんが、外郭に位置する東西方向の石組み溝と、
それに取り付く溝と言うことになっています。
塀跡などは、検出されなかったのかも知れませんね。
最大級の基幹排水路と発表されているようです。
直接遺構は見ていないのですけど、シート越しに見た溝らしき横幅は結構な広さでした。
飛鳥京の北限が遺跡の近くを東西に走るとすると、
飛鳥寺との間も広く空くというわけでもなさそうです。
飛鳥寺の南は、石敷きが確認されていますが、
その先は、基幹排水路と広めの道路ぐらいなのでしょうか。
これは、あくまでもイメージです。(^^ゞ
甘樫丘東麓遺跡も同日に現説がありますので、楽しみな一日になりました♪
こんなん出来ました。 上は、ももさん提供♪ 下は風人作。
リンクしていただける方は、お使いください。m(_ _)m
両槻会ブログには、明日にでも。
マスコミで発表され始めました♪
橿考研サイトでも、現説の案内が出ています。橿考研
北限遺跡とは書かれませんが、外郭に位置する東西方向の石組み溝と、
それに取り付く溝と言うことになっています。
塀跡などは、検出されなかったのかも知れませんね。
最大級の基幹排水路と発表されているようです。
直接遺構は見ていないのですけど、シート越しに見た溝らしき横幅は結構な広さでした。
飛鳥京の北限が遺跡の近くを東西に走るとすると、
飛鳥寺との間も広く空くというわけでもなさそうです。
飛鳥寺の南は、石敷きが確認されていますが、
その先は、基幹排水路と広めの道路ぐらいなのでしょうか。
これは、あくまでもイメージです。(^^ゞ
甘樫丘東麓遺跡も同日に現説がありますので、楽しみな一日になりました♪
こんなん出来ました。 上は、ももさん提供♪ 下は風人作。
リンクしていただける方は、お使いください。m(_ _)m
両槻会ブログには、明日にでも。
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甘樫丘東麓遺跡発掘調査の成果が報道され始めました♪
気になる蘇我入鹿邸(谷の宮門)である可能性は、ますます高くなるようですが、
なお中心建物は出土していない模様です。
今回は、石垣や掘立て柱建物跡や塀跡が検出されたようです。
7世紀前半(近くの泥土から640年代の土器が出土)に大規模な石垣を築いて,
敷地を整えたと思われます。
より要塞的な建物であったのかも知れませんし、
基礎をしっかりさせる必要のある倉庫や兵庫なども考えられるかも知れません。
また、建物をより立派に見せる手段であったのかも知れません。
石垣は、南北15メートルにわたり、
最大50センチの花崗岩を6~7段に積み重ねているようです。
高さは最高1メートル。1段積むごとに土を埋めた丁寧な造りだということです。
谷筋のほぼ中央に石垣が築かれ、その東側が敷地として一段高く造成されていた模様です。
検出された主な掘っ立柱建物跡は、縦8メートル・横3.8メートル程度の規模のようですが、全体で、2期に分けられる建物跡が、7棟分新たに見つかったようです。
1期は600~650年代で、河原石を積んだ石垣とその東側を埋め立てて平らにした整地跡で、建物跡1棟と塀が含まれるようです。
まだ、詳細は分かりません。 続報を待ちたいと思います♪
発掘現地説明会は、11日午後1時から4時まで。
この日には、もう一つあるかも知れません♪ (^^)
橿考研サイトで、先日の東中谷遺跡の現説資料が公開されています。
行かれなかった人、また資料入手できなかった人はどうぞ。
東中谷遺跡現地説明会資料
橘寺・節分情報
星祭、午前10時から夕方まで、国家安泰・五穀豊穣・無病息災・厄除けを祈願し、
護摩をたく。ぜんざいの接待、福引券付き福豆の配布がある(無料)。
当日は入山料無料。
気になる蘇我入鹿邸(谷の宮門)である可能性は、ますます高くなるようですが、
なお中心建物は出土していない模様です。
今回は、石垣や掘立て柱建物跡や塀跡が検出されたようです。
7世紀前半(近くの泥土から640年代の土器が出土)に大規模な石垣を築いて,
敷地を整えたと思われます。
より要塞的な建物であったのかも知れませんし、
基礎をしっかりさせる必要のある倉庫や兵庫なども考えられるかも知れません。
また、建物をより立派に見せる手段であったのかも知れません。
石垣は、南北15メートルにわたり、
最大50センチの花崗岩を6~7段に積み重ねているようです。
高さは最高1メートル。1段積むごとに土を埋めた丁寧な造りだということです。
谷筋のほぼ中央に石垣が築かれ、その東側が敷地として一段高く造成されていた模様です。
検出された主な掘っ立柱建物跡は、縦8メートル・横3.8メートル程度の規模のようですが、全体で、2期に分けられる建物跡が、7棟分新たに見つかったようです。
1期は600~650年代で、河原石を積んだ石垣とその東側を埋め立てて平らにした整地跡で、建物跡1棟と塀が含まれるようです。
2期は、石垣を埋め、改めて整地されたとみられ、640~680年代。
中小規模の建物が数回建て直された6棟分と石敷き跡がその時期になるようです。
日本書紀の記述などと比べると、
石垣が入鹿の邸宅の関連施設、建物跡は乙巳の変後の中大兄皇子らが関係しているのかも知れません。
まだ、詳細は分かりません。 続報を待ちたいと思います♪
発掘現地説明会は、11日午後1時から4時まで。
この日には、もう一つあるかも知れません♪ (^^)
06年12月23日撮影
橿考研サイトで、先日の東中谷遺跡の現説資料が公開されています。
行かれなかった人、また資料入手できなかった人はどうぞ。
東中谷遺跡現地説明会資料
橘寺・節分情報
星祭、午前10時から夕方まで、国家安泰・五穀豊穣・無病息災・厄除けを祈願し、
護摩をたく。ぜんざいの接待、福引券付き福豆の配布がある(無料)。
当日は入山料無料。
奇怪なタイトルですけど。(^^ゞ
NHKで2日に面白そうな番組がありますよ~♪
こちら♪
胸騒ぎの甘樫丘東麓遺跡♪ (笑)
皇極3年(644)冬11月、蘇我蝦夷と入鹿は、『家を甘檮岡(甘樫丘)に並べて建て、
大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と呼んだ。
また、その男女を王子(みこ)とよんだ。
家の外には城柵を造り、門のわきには兵庫(武器庫)を造り、
門ごとに水をみたした舟一つと木鉤(とびぐち)数十本とを置いて火災に備え、
力の強い男に武器をもたせていつも家を守らせた。
大臣は、長直(ながのあたい)に命じて大丹穂山(入谷?)に桙削寺(ほこぬきのてら)を造らせ、
また畝傍山の東にも家を建て、池を掘ってとりでとし、武器庫を建てて矢を貯えた。』
上は、日本書紀の記事です。
皇極天皇の時代になり、急速に蘇我氏の専横ぶりが書き連ねられ始めます。
上の記事も、通説では宮殿を見下ろす甘樫丘上に私邸を建てるという、
不遜な行いの一つと数えられます。
σ(^^)には、本当にそうなのかっていう疑問がずっとありました。
邸宅を武装化しているように書かれているのですけど、
甘樫丘に立ってみると、確かに飛鳥真神原を一望には出来るのですが、
それ以上に西及び北の視界の広さに気付きます。
飛鳥を見るためと言うより、飛鳥の外を見るためなのではないかと思っています。
蝦夷の邸宅の一部(物見台など)が、豊浦展望台にあったと仮定しての話ではありますが。
(ちなみに甘樫丘東麓遺跡から飛鳥板蓋宮は見えません。)
上から見られることが専横の証拠とされるなら、飛鳥の宮は盆地の低地に位置します。
その地にある限り、実際に人々の住まいがあったと思われる東の丘陵地帯からは、
見下ろされる位置にあるわけで、立地が既に矛盾しているようにも感じます。
蘇我氏は、畝傍山の東の家の他に近辺に石川など大きな土地を持っています。
その辺りを飛鳥の玄関口だとすると、見方も変わってくるのではないでしょうか。
以前にも書いたと思うのですが、山田寺が東の関所であったと考えられます。
(当サイトのいろいろのページに書いています。m(_ _)m)
お寺は重要な防御拠点にもなりえます。
それは、壬申の乱や乙巳の変(大化の改新)の記事を見るまでもありません。
桜井市山田は、現在でも山田道を見下ろす位置にあります。
高みに櫓でも組めば、北の方向にかなりの視野を持つことが出来ます。
こうしてみると、飛鳥の東西を押さえていることになり、
この記事に続く桙削寺の記事の意味が、より分かりやすくなります。
所在地が入谷説や高取町の南とする説も有るようですけど、
ともかく南の抑えと考えることが出来ます。
これは、もう私邸を武装化しているというより、飛鳥の防衛網ではないのか?
蘇我氏は、飛鳥防衛構想を練り上げていたのではないか?
そこには、専横な蘇我氏の顔を見ることは出来ません。
これが真実ではないのか、そんな気がしてなりません。
蘇我氏の実像は、発掘調査の進展と共に明らかになって行くのではないでしょうか。
そういう意味でも、2月3日の「発掘された蘇我氏の飛鳥」という講演会は、
興味深く、タイムリーな演題であると思います♪
何がタイムリーって? ふふふっ♪
平成18年度冬期企画展
発掘調査速報展 「飛鳥の考古学2006」
2月3日の件はこちら♪ 「飛鳥庵集会」 参加募集♪
NHKで2日に面白そうな番組がありますよ~♪
こちら♪
胸騒ぎの甘樫丘東麓遺跡♪ (笑)
皇極3年(644)冬11月、蘇我蝦夷と入鹿は、『家を甘檮岡(甘樫丘)に並べて建て、
大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と呼んだ。
また、その男女を王子(みこ)とよんだ。
家の外には城柵を造り、門のわきには兵庫(武器庫)を造り、
門ごとに水をみたした舟一つと木鉤(とびぐち)数十本とを置いて火災に備え、
力の強い男に武器をもたせていつも家を守らせた。
大臣は、長直(ながのあたい)に命じて大丹穂山(入谷?)に桙削寺(ほこぬきのてら)を造らせ、
また畝傍山の東にも家を建て、池を掘ってとりでとし、武器庫を建てて矢を貯えた。』
上は、日本書紀の記事です。
皇極天皇の時代になり、急速に蘇我氏の専横ぶりが書き連ねられ始めます。
上の記事も、通説では宮殿を見下ろす甘樫丘上に私邸を建てるという、
不遜な行いの一つと数えられます。
σ(^^)には、本当にそうなのかっていう疑問がずっとありました。
邸宅を武装化しているように書かれているのですけど、
甘樫丘に立ってみると、確かに飛鳥真神原を一望には出来るのですが、
それ以上に西及び北の視界の広さに気付きます。
飛鳥を見るためと言うより、飛鳥の外を見るためなのではないかと思っています。
蝦夷の邸宅の一部(物見台など)が、豊浦展望台にあったと仮定しての話ではありますが。
(ちなみに甘樫丘東麓遺跡から飛鳥板蓋宮は見えません。)
上から見られることが専横の証拠とされるなら、飛鳥の宮は盆地の低地に位置します。
その地にある限り、実際に人々の住まいがあったと思われる東の丘陵地帯からは、
見下ろされる位置にあるわけで、立地が既に矛盾しているようにも感じます。
蘇我氏は、畝傍山の東の家の他に近辺に石川など大きな土地を持っています。
その辺りを飛鳥の玄関口だとすると、見方も変わってくるのではないでしょうか。
以前にも書いたと思うのですが、山田寺が東の関所であったと考えられます。
(当サイトのいろいろのページに書いています。m(_ _)m)
お寺は重要な防御拠点にもなりえます。
それは、壬申の乱や乙巳の変(大化の改新)の記事を見るまでもありません。
桜井市山田は、現在でも山田道を見下ろす位置にあります。
高みに櫓でも組めば、北の方向にかなりの視野を持つことが出来ます。
こうしてみると、飛鳥の東西を押さえていることになり、
この記事に続く桙削寺の記事の意味が、より分かりやすくなります。
所在地が入谷説や高取町の南とする説も有るようですけど、
ともかく南の抑えと考えることが出来ます。
これは、もう私邸を武装化しているというより、飛鳥の防衛網ではないのか?
蘇我氏は、飛鳥防衛構想を練り上げていたのではないか?
そこには、専横な蘇我氏の顔を見ることは出来ません。
これが真実ではないのか、そんな気がしてなりません。
蘇我氏の実像は、発掘調査の進展と共に明らかになって行くのではないでしょうか。
そういう意味でも、2月3日の「発掘された蘇我氏の飛鳥」という講演会は、
興味深く、タイムリーな演題であると思います♪
何がタイムリーって? ふふふっ♪
平成18年度冬期企画展
発掘調査速報展 「飛鳥の考古学2006」
2月3日の件はこちら♪ 「飛鳥庵集会」 参加募集♪
久しぶりの連荘現説です♪
高取町で行われる現説も久しぶりでした。
市尾駅を降りる時から、さあ大変!
駅の開設以来ではないかと思うたくさんの人が降りた。(^^ゞ
現説への最も便利な電車が、この便に限られているからなのだけど、
改札で渋滞する光景に、思わず駅員さんも写真を撮っていた。(笑)
市尾墓山古墳現説
市尾墓山古墳は、全長66m・高さ10mの前方後円墳です。
(周濠・外堤を含めると100m)
可愛いいひょっこりひょうたん島って感じの古墳です。
古墳時代の後期(6c初頭)に造られたものだとされ、
後円部の横穴式石室から内部に朱が塗られた家型石棺が発見されています。
市尾墓山古墳参照
今回の調査では、昨年の鳥型木製品についで、石見型と呼ばれる木製品が出土し、
注目を集めました。
古墳のくびれ部と造り出し部にかけての墳丘裾部や周濠・外堤基底部が調査され、
墳丘から転落またはそのままの葺石と共に、同じく多くの埴輪片も出土しています。
埴輪は、円筒形、朝顔形、形象埴輪も含まれているとの事でした。
また、周濠からは木製品が出土しました。
中でも石見型木製品が注目されました。
形象部で高さ2mを超え、幅は55cm、厚さは1~2cmであるようです。
造り出しの裾には、石見型の木製品が立っていたと思われる痕跡が検出されています。
痕跡は、長さ20cm、幅2cmの長方形をしているようです。
木製品の下部が杭状をしており、土中に差し込まれて立っていたように思われます。
石見型木製品と言うのは、盾や儀仗を表しているとされており、
邪悪なものの進入を阻止するための物だと考えられています。
(この石見型の名前にある石見は、旧国名ではなく、
磯城郡三宅町の石見遺跡から出土したものに因んでつけられた名称だそうです。)
墳丘部には土の埴輪が、裾部には木製品の埴輪が並んでいたのでしょう。
葬送儀礼や墳墓の境界を明示する目的もあったのかも知れません。
現説は、残念ながら低機能のハンドマイクで行われ、ほとんど聞き取れない状況でした。
かなりブーイングもおこり、ざわめきでますます聞き取れなくなったので、
石見型木製品が展示されている歴史研修センターに移動することにしました。
おかげで、空いた状態で木製品を見学することが出来ました。
そこから、東中谷遺跡に移動します。
途中、薩摩遺跡を通るのですけど、まったく遺跡の表示がなく残念でした。
道案内の矢印の下にでも、名前くらい書いておけば良いのになぁーとぶつぶつ。
さらに近鉄吉野線を潜った辺りに、ブルーシートを掛けた遺跡らしいものを発見。
後に、橿考研の先生に尋ねてみると、
発掘が中断している古墳かも知れないという発掘現場でした。
まだ、正式な遺跡名称はないようです。東中谷遺跡のある丘の北西斜面になるようです。
そこから、さらに歩いて東中谷遺跡に到着です。
遺跡は、見上げるような丘の上! ふぅー
東中谷遺跡現説
丘頂からは、薩摩遺跡越しに二上山が見えていました。
バイパス工事現場が薩摩遺跡。
その手前のブルーシートが、先ほどの古墳?って発掘中の遺跡です。
東中谷遺跡は、丘の上に作られた平安時代の初期の古墓群です。
火葬・土葬合わせて5基が確認されました。
2号墓は、木棺を埋める際に、木炭で周りを埋めています。
土と木炭を交互に敷き詰め、一番上を土で塚状に盛土していたようです。
副葬品として土師器の壺と銅鏡(破片)や鉄滓がありました。
銅鏡は、8世紀に作られたと推定できる「八花鏡」と呼ばれるものの破片で、
復元すると直径24cmほどの物であるようです。
破片を故意に埋葬したようで、これを破鏡と言うそうです。
破鏡の持つ意味は、私にはよく分かりませんが、
完全な鏡を埋葬する、あるいは持つことが出来ない程度の被葬者なのかも知れません。
しかし、墓は丁寧な作りをしており、
担当の先生は在地の有力者、またはこの地出身の官人を推定されていました。
副葬品と言えるのかどうか分かりませんが、鉄滓が出土しているのに首を傾げました。
滓ですから、どんな意味があるのでしょうか?
鉄を加工している人達の上役とかの仕事をしていたのでしょうか?
謎です。
他には、木棺に使われていた釘が多数展示されていました。
人が多い現説は、なかなか質問出来ないのが困った点です。
1号墓は火葬、3号墓は土壙墓、4・5号墓は木棺墓と、多彩な埋葬方法が取られています。数世代にわたるお墓ではないかとの見方も紹介されていました。
一般的な住宅跡とは思えない場所です。質問したかたのですけど、
手隙の先生が見つからず、分からないままに終わりました。(x_x)
思うに、場所柄もあるので、中世の砦とか物見の建物ではないかと想像しています。
越智氏の本拠地に近いですので、その関連かも知れないですし、
ここからは、かなりの見通しがあるからってσ(^^)の想像でしかありません。m(_ _)m
(後ほど掲示板にいただいた情報に依ると、やはり中世山城に関連するそうです。
本体の城は北西方向の丘上にあるようで、松山城というそうです♪。)
藤児媛さんありがとうございます♪
東中谷遺跡を見学後、高取町観光ボランティアさんの基地でもある夢創館を訪ねました。そこで、知ったこと。
高取町では、土佐街並み「民家の雛めぐり」と題され、
民家に眠る雛人形を展示され、1ヶ月に及ぶイベントを企画されています。
3月1日から31日まで。
土佐街並み一帯に30ヵ所を超える民家が展示に協力されるそうです。
実に企画力、行動力にとんどボランティアさん達♪
昨秋、こんなのをやってみたいと、ボランティアのお一人から聞いていたばかりでした。
素晴らしい実行力です♪ そのご努力に敬服いたしました。(∩.∩)
飛鳥三昧もそれにお応えして、宣伝をさせていただきます。
現在、夢創館にて展示されている雛飾りの一部です。
夢創館で、ひとしきりの歓談の後、桧隈を通って、飛鳥駅まで歩くことにしました。
実に我々らしいところです。(笑) そして、暫しさわさんに寄道。
楽しい週末となりました♪
ご同行いただいたのは、河内太古さん、ネコ旦那さん、笑いネコさん、泉太郎さんでした。
ありがとうございました♪
楽しく歓談させていただいた高取町観光ボランティアの会のサイト。
夢創館や雛人形展の情報は、こちらから♪ ↑
2月3日の件はこちら♪ 「飛鳥庵集会」 参加募集♪
高取町で行われる現説も久しぶりでした。
市尾駅を降りる時から、さあ大変!
駅の開設以来ではないかと思うたくさんの人が降りた。(^^ゞ
現説への最も便利な電車が、この便に限られているからなのだけど、
改札で渋滞する光景に、思わず駅員さんも写真を撮っていた。(笑)
市尾墓山古墳現説
市尾墓山古墳は、全長66m・高さ10mの前方後円墳です。
(周濠・外堤を含めると100m)
可愛いいひょっこりひょうたん島って感じの古墳です。
古墳時代の後期(6c初頭)に造られたものだとされ、
後円部の横穴式石室から内部に朱が塗られた家型石棺が発見されています。
市尾墓山古墳参照
今回の調査では、昨年の鳥型木製品についで、石見型と呼ばれる木製品が出土し、
注目を集めました。
石見型木製品と昨年出土した鳥型木製品です♪
古墳のくびれ部と造り出し部にかけての墳丘裾部や周濠・外堤基底部が調査され、
墳丘から転落またはそのままの葺石と共に、同じく多くの埴輪片も出土しています。
埴輪は、円筒形、朝顔形、形象埴輪も含まれているとの事でした。
朝顔形埴輪
また、周濠からは木製品が出土しました。
中でも石見型木製品が注目されました。
形象部で高さ2mを超え、幅は55cm、厚さは1~2cmであるようです。
出土状況
造り出しの裾には、石見型の木製品が立っていたと思われる痕跡が検出されています。
痕跡は、長さ20cm、幅2cmの長方形をしているようです。
木製品の下部が杭状をしており、土中に差し込まれて立っていたように思われます。
石見型木製品と言うのは、盾や儀仗を表しているとされており、
邪悪なものの進入を阻止するための物だと考えられています。
(この石見型の名前にある石見は、旧国名ではなく、
磯城郡三宅町の石見遺跡から出土したものに因んでつけられた名称だそうです。)
墳丘部には土の埴輪が、裾部には木製品の埴輪が並んでいたのでしょう。
葬送儀礼や墳墓の境界を明示する目的もあったのかも知れません。
現説は、残念ながら低機能のハンドマイクで行われ、ほとんど聞き取れない状況でした。
かなりブーイングもおこり、ざわめきでますます聞き取れなくなったので、
石見型木製品が展示されている歴史研修センターに移動することにしました。
おかげで、空いた状態で木製品を見学することが出来ました。
そこから、東中谷遺跡に移動します。
途中、薩摩遺跡を通るのですけど、まったく遺跡の表示がなく残念でした。
道案内の矢印の下にでも、名前くらい書いておけば良いのになぁーとぶつぶつ。
さらに近鉄吉野線を潜った辺りに、ブルーシートを掛けた遺跡らしいものを発見。
後に、橿考研の先生に尋ねてみると、
発掘が中断している古墳かも知れないという発掘現場でした。
まだ、正式な遺跡名称はないようです。東中谷遺跡のある丘の北西斜面になるようです。
そこから、さらに歩いて東中谷遺跡に到着です。
遺跡は、見上げるような丘の上! ふぅー
東中谷遺跡現説
丘頂からは、薩摩遺跡越しに二上山が見えていました。
バイパス工事現場が薩摩遺跡。
その手前のブルーシートが、先ほどの古墳?って発掘中の遺跡です。
東中谷遺跡は、丘の上に作られた平安時代の初期の古墓群です。
火葬・土葬合わせて5基が確認されました。
2号墓は、木棺を埋める際に、木炭で周りを埋めています。
土と木炭を交互に敷き詰め、一番上を土で塚状に盛土していたようです。
2号墓
副葬品として土師器の壺と銅鏡(破片)や鉄滓がありました。
銅鏡は、8世紀に作られたと推定できる「八花鏡」と呼ばれるものの破片で、
復元すると直径24cmほどの物であるようです。
2号墓副葬品
破片を故意に埋葬したようで、これを破鏡と言うそうです。
完全な鏡を埋葬する、あるいは持つことが出来ない程度の被葬者なのかも知れません。
しかし、墓は丁寧な作りをしており、
担当の先生は在地の有力者、またはこの地出身の官人を推定されていました。
副葬品と言えるのかどうか分かりませんが、鉄滓が出土しているのに首を傾げました。
滓ですから、どんな意味があるのでしょうか?
鉄を加工している人達の上役とかの仕事をしていたのでしょうか?
謎です。
他には、木棺に使われていた釘が多数展示されていました。
人が多い現説は、なかなか質問出来ないのが困った点です。
検出された古墓
1号墓は火葬、3号墓は土壙墓、4・5号墓は木棺墓と、多彩な埋葬方法が取られています。数世代にわたるお墓ではないかとの見方も紹介されていました。
丘の一番高い所にあった柱穴現説では、説明がなかったのですけど、丘頂上に柱穴がありました。
一般的な住宅跡とは思えない場所です。質問したかたのですけど、
手隙の先生が見つからず、分からないままに終わりました。(x_x)
思うに、場所柄もあるので、中世の砦とか物見の建物ではないかと想像しています。
越智氏の本拠地に近いですので、その関連かも知れないですし、
ここからは、かなりの見通しがあるからってσ(^^)の想像でしかありません。m(_ _)m
(後ほど掲示板にいただいた情報に依ると、やはり中世山城に関連するそうです。
本体の城は北西方向の丘上にあるようで、松山城というそうです♪。)
藤児媛さんありがとうございます♪
東中谷遺跡を見学後、高取町観光ボランティアさんの基地でもある夢創館を訪ねました。そこで、知ったこと。
高取町では、土佐街並み「民家の雛めぐり」と題され、
民家に眠る雛人形を展示され、1ヶ月に及ぶイベントを企画されています。
3月1日から31日まで。
土佐街並み一帯に30ヵ所を超える民家が展示に協力されるそうです。
実に企画力、行動力にとんどボランティアさん達♪
昨秋、こんなのをやってみたいと、ボランティアのお一人から聞いていたばかりでした。
素晴らしい実行力です♪ そのご努力に敬服いたしました。(∩.∩)
飛鳥三昧もそれにお応えして、宣伝をさせていただきます。
現在、夢創館にて展示されている雛飾りの一部です。
夢創館で、ひとしきりの歓談の後、桧隈を通って、飛鳥駅まで歩くことにしました。
実に我々らしいところです。(笑) そして、暫しさわさんに寄道。
楽しい週末となりました♪
ご同行いただいたのは、河内太古さん、ネコ旦那さん、笑いネコさん、泉太郎さんでした。
ありがとうございました♪
楽しく歓談させていただいた高取町観光ボランティアの会のサイト。
夢創館や雛人形展の情報は、こちらから♪ ↑
2月3日の件はこちら♪ 「飛鳥庵集会」 参加募集♪
高取町薩摩東中谷遺跡で現地説明会が行われます。
2007年1月28日(日)14時~15時
平安時代(9世紀初め)の古墓群が見つかったようです。
古墓群は、火葬墓と木棺墓で構成されているようですが、
その中でも木棺墓は、木棺の周囲に木炭を敷き詰めた特殊な構造の墓のようです。
墓からは、唐代に製作されたと考えられる八花鏡などが出土しており、
有力者の墓と考えられるようです。
現地案内は、こちらから。橿考研サイト内現説ページ(地図あり)
@携帯風人
25日追記 市尾墓山古墳から石見型木製品出土♪
高取町でもう一つ現説が行われるので追記します。
高取町市尾の市尾墓山古墳の周濠から、「石見型木製品」などが出土しました。
木製品は長さ2・04メートル、幅36センチで、同型の物の中でも最大級だそうです。
周濠と墳丘の境にこれを立てて結界する「木の埴輪」と思われるとコメントされています。
現地説明会は28日午後1時から。
高取町観光ボランティアの会さんから、現説連荘で行きましょう♪ってメールが着ています。(^^)
週末風人は、これで決まりかな。
2月3日の件はこちら♪ 「飛鳥庵集会」 参加募集♪
2007年1月28日(日)14時~15時
平安時代(9世紀初め)の古墓群が見つかったようです。
古墓群は、火葬墓と木棺墓で構成されているようですが、
その中でも木棺墓は、木棺の周囲に木炭を敷き詰めた特殊な構造の墓のようです。
墓からは、唐代に製作されたと考えられる八花鏡などが出土しており、
有力者の墓と考えられるようです。
現地案内は、こちらから。橿考研サイト内現説ページ(地図あり)
@携帯風人
25日追記 市尾墓山古墳から石見型木製品出土♪
高取町でもう一つ現説が行われるので追記します。
高取町市尾の市尾墓山古墳の周濠から、「石見型木製品」などが出土しました。
木製品は長さ2・04メートル、幅36センチで、同型の物の中でも最大級だそうです。
周濠と墳丘の境にこれを立てて結界する「木の埴輪」と思われるとコメントされています。
現地説明会は28日午後1時から。
市尾墓山古墳南側の周濠と墳丘を発掘したようです。
他の木製品も出土したようで、いずれも高野槇製だと言うことです。
市尾墓山古墳では2005年、やはり周濠から鳥形木製品も出土しており、
外周に木製品を置き、墳丘上に円筒や朝顔などの形をした土の埴輪を並べていたことが分かりました。
再追記 巣山古墳から木製品♪
巣山古墳の堀から、船の部材などの木製品15点がまたまた見つかったようです。
隣接した場所から昨年2月に木棺の蓋(構造材?)や棺を載せた船の部材が出土していて、
今回の木製品も同じ船のものとみられるようです。
出土した木製品は、船の側面に使われたとみられる端が反り返った板(長さ95センチ、幅20センチ)やほぞ穴を開けた長さ2.8メートル、幅20センチの板などだそうです。
また樋形の2点は、長さ5・2メートルと2メートルで、いずれも幅35センチ、厚さ5センチ。丸太を半分に割ってくり抜いているようです。
長い方は、片側に突起などがあり、別の部材と連結したらしいたいうことです。
儀式などで水を流すなどしたとみられます。
現地説明会は27日午後1時から4時まで。
市尾墓山古墳と巣山古墳については、飛鳥三昧のコンテンツ中に記事があります。
市尾墓山古墳 巣山古墳
@今日も携帯風人
高取町観光ボランティアの会さんから、現説連荘で行きましょう♪ってメールが着ています。(^^)
週末風人は、これで決まりかな。
2月3日の件はこちら♪ 「飛鳥庵集会」 参加募集♪
1月
来春には、甘樫丘東麓遺跡・石神遺跡・飛鳥浄御原宮外郭北限遺跡・竹田遺跡などから、次々に発掘成果が報告される見込みです。
飛鳥への興味は、ますます強くなりそう♪
ももさんの2006年発掘にトラックバックしました。
- 藤原宮内裏の発掘調査。石敷き広場と掘立て柱建物が出た。 情報は、早くから掴んでいたのに、現説も現地にも行けなかった。
- 来目皇子墓だと言われる塚穴古墳の外堤の発掘調査。文献ではぱっとしない皇子の墓が石舞台古墳に匹敵する規模であったのが印象に残る。
- 巣山古墳の周濠から舟形木製品が出土し、葬送儀礼に使われた物だとされた。現物が公開展示されたので、古墳と共に見学に行った。
- 飛鳥浄御原宮内裏北正殿が発掘された。昨年のを南正殿と名づけたようだ。北正殿は、内安殿の可能性が高いらしい。飛鳥宮の最上層はかなり分かってきたように思う。最下層の岡本宮の一部も検出され、赤く焼けた柱穴が検出されていた。
- 島庄から石舞台古墳建設の作業監視小屋か?という建物跡が出土した。境部臣と本宗家の争いの場を想起させる遺構であった。
- 島庄遺跡北限の塀や溝跡が出土した。唯称寺川のすぐ南まで、島宮が広範囲な敷地を有していたことが分かった。
- 石神遺跡から最古の年号を記した木簡が出土した。「観音経」の写経に関する物で、その点でも注目された。この下層から、後に推古朝の柵列や建物跡が出土し興味を引いた。
- キトラ古墳の白虎が公開され、大きな反響があった。しかし、疑問点や問題点も多くあったように思う。キトラ・高松塚共に、文化庁への憤りを抑えきれずにいる。国民こぞっての宝であることを、文化庁こそ再認識すべき出来事であったように思う。
- 法隆寺境内推定若草伽藍域で、彩色壁画片が多数出土した。何度か見る機会があったが、焼けた壁画片はσ(^^)にはよく分からなかった。
- 東漢氏の一族である坂上氏の本拠地があった観覚寺遺跡で、奈良時代後半から平安時代初めの大壁建物跡や塀跡などが検出された。征夷大将軍・坂上田村麻呂との関連も注目された。
- 三重県亀山市から、奈良時代中期の鈴鹿関跡らしい瓦葺築地塀が検出された。
- 藤原京朝堂院東第四堂の調査が行われた。建築過程や下層古墳にも興味が引かれた。
- 難波宮から飛鳥時代中期の最古の万葉仮名が書かれた木簡が出土した。「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読まれる可能性が高く、歌ではないかとの見解も出された。
- 高取町の羽内遺跡から、大壁建物跡が見つかった。古代朝鮮系の土器やふいごなど鍛冶工具なども出土した。
- 竹田遺跡から、飛鳥時代後半と思われる建物が10棟検出された。天武天皇の第13子新田部皇子邸の可能性も含め、飛鳥の高級住宅街であるとの見解が有力だった。
- 続明日香村史発行。問題点が多々あり、対応に疑問点も残った。
- 飛鳥時代に創建された高麗寺跡から、8世紀末ごろの鴟尾が南門跡付近から出土した。
- 飛鳥寺講堂跡の南西角から礎石が出土し、創建時の講堂の規模が確定した。平日の公開しかなく、見に行くことが出来なかった。
来春には、甘樫丘東麓遺跡・石神遺跡・飛鳥浄御原宮外郭北限遺跡・竹田遺跡などから、次々に発掘成果が報告される見込みです。
飛鳥への興味は、ますます強くなりそう♪
ももさんの2006年発掘にトラックバックしました。
冷たい雨の降る中を、発掘中の遺跡を訪ねて歩いてきました。
成果が楽しみな遺跡ばかりです♪
甘樫丘東麓遺跡
石神遺跡
クリックで拡大します。
山田道に届こうかと言う場所です。古代の山田道は検出されるのでしょうか?
前回に続き推古朝の遺構が出るのでしょうか?
飛鳥浄御原宮外郭北限
クリックで拡大します。
この調査で、正確な浄御原宮の規模が分かるかも知れません。
飛鳥庵のすぐ南側ですので、ずっと経過を見守りたいと思います。
この他、竹田遺跡もまだ調査が続いているのかも知れません。
シートが掛けられたままでした。下層遺構の調査かも。
甘樫丘豊浦展望台下には、ヒマラヤ桜が咲いていました♪
寒風の中ですので、花見の気分はありませんが、
昨年から咲き始めた冬に咲く桜です。(^^)
成果が楽しみな遺跡ばかりです♪
甘樫丘東麓遺跡
クリックで拡大します。
蘇我入鹿の邸宅跡と言われた昨年の続きを、大きな面として調査しているようです。石神遺跡
クリックで拡大します。
山田道に届こうかと言う場所です。古代の山田道は検出されるのでしょうか?
前回に続き推古朝の遺構が出るのでしょうか?
飛鳥浄御原宮外郭北限
クリックで拡大します。
この調査で、正確な浄御原宮の規模が分かるかも知れません。
飛鳥庵のすぐ南側ですので、ずっと経過を見守りたいと思います。
この他、竹田遺跡もまだ調査が続いているのかも知れません。
シートが掛けられたままでした。下層遺構の調査かも。
甘樫丘豊浦展望台下には、ヒマラヤ桜が咲いていました♪
寒風の中ですので、花見の気分はありませんが、
昨年から咲き始めた冬に咲く桜です。(^^)
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プロフィール
HN:
真神原連風人
年齢:
1450
HP:
性別:
男性
誕生日:
0574/04/20
職業:
飛鳥応援大使
趣味:
飛鳥人
自己紹介:
同年の厩戸皇子様が制定された冠位十二階より、大信の位階をいただいております。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
別名、風使部とも呼ばれております。
仕事は、飛鳥をアピールすることだそうなので、風の便りを発して頑張りますぅ。
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